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無一文ルンペン借金まみれ山寺一美 - 山寺一美

2018/02/17 (Sat) 10:35:14

助けよう

フランスカペーブルボン - ミラーマンレオ

2018/02/17 (Sat) 08:58:09

フランク時代から書き起こせば

メロヴィング朝(481年~751年)
カロリング朝(751年~987年)
カペー朝(987年~1328年)
ヴァロワ朝(1328年~1589年)
ボナパルト朝(1804年~1814年、1814年~1815年)
ブルボン朝(1589年~1792年、1814年、1815年~1830年)
オレルアン朝(1830年~1848年)
第二ボナパルト朝(1852年~1870年)

カペー朝以降は一応男系で繋がっています。ブルボン朝の終わりまでね。フランク族を含むサリカ部族の古法であるサリカ法典を根拠にしたルールですが、ヴァロワ朝時代に王位を安定させ、イングランド王の介入を阻止するために確立したルールです。
カロリング朝時代には、カロリング家のほか、ロベール家からも3人の王が出ており、しかし彼らもカロリング朝の王として扱われています。カペー朝の始祖、ユーグ・カペーはロベール家の出身です。
なおヴァロワ朝は オレルアン家出身のルイ12世の時に、ヴァロワ家と男系ではつながっているものの、系図上大きく離れた男子を王としたため、ヴァロワ=オレルアン家と呼ばれ、彼にも子供が無かったために、同様の条件になるアングレーム伯のフランソワがフランソワ1世として即位しています。これがヴァロワ=アングレーム家。その後王位を引き継いだフランソワ1世の子アンリ2世、その子のフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世はヴァロワ=アングレーム家ですが、ヴァロワ朝として扱われます。

カペー朝
フランス最初の王朝の歴史。

メロヴィング朝とカロリング朝のフランク王国は「フランス」成立以前として外し、近代以降のナポレオン帝政とオルレアン朝も除くと、考えてみればカペー朝・ヴァロワ朝・ブルボン朝と、フランスには三つしか王朝がない。

高校教科書に出てくるカペー朝国王は初代ユーグ・カペー、フィリップ2世、ルイ9世、フィリップ4世の四人。

本書の長所は、これら有力国王に挟まれたマイナー君主を一人残らず紹介して、王朝全体の概観を与えてくれるところ。

ユーグ・カペーの即位と王朝創設は987年だが、ややこしいことに、それ以前にもこの家は始祖の「強者ロベール」の息子ウード(オドー)とロベール(1世)がカロリング朝の合間に王位に就いている。

ロベールの息子大ユーグはカロリング家国王を立てつつ実権は自らが握る(彼はオットー1世の皇女と結婚)。

西フランクのカロリング朝がシャルル1世(禿頭王)→ルイ2世(吃音王)→ルイ3世・カルロマン・シャルル3世(単純王)[以上三人は兄弟]→ルイ4世(渡海王)→ロテール→ルイ5世と続いた後に断絶、大ユーグの息子ユーグ・カペーが即位。

(ウードとロベールの即位はシャルル3世の前後、大ユーグがルイ4世を擁立。)

「カペー」の意外な語源なんて本書で始めて知りましたよ。

当初の王領はセーヌ川沿いのパリとその南、ロワール川沿いのオルレアンに挟まれたイル・ド・フランス(フランス島)のみ。

以後王権が着実に伸張していくが、それを可能にした要因として歴代国王の長寿と男子の跡継ぎに恵まれたことがある。

系図を見ると、初代ユーグ・カペー以来、10代以上にわたってきれいに直系男子の継承が続いている。

これは「カペーの奇跡」として、柴田三千雄『フランス史10講』(岩波新書)でも触れられており、一番単純すぎる理由ではあるが、前近代において極めて重要であったことも容易に想像がつく。

ユーグ・カペーの後は本書で「名ばかりの王たち」と書かれている弱体な王が三代続く。

ロベール2世(敬虔王) 996~1031年。

アンリ1世 1031~1060年。

フィリップ1世 1060~1108年。

特筆すべきこともない国王とは言え、上記の通り在位期間は長い。

フィリップ1世はおよそ半世紀在位、この人の長い治世の間にイングランドのノルマン征服・カノッサの屈辱と聖職叙任権闘争・クレルモン公会議と第一回十字軍という大事件が起こっている。

続いてルイ6世(肥満王) 1108~1137年。

著者はこの王の治世が王権拡張のターニングポイントだとして重視している。

家臣団の統制と領主貴族の討伐を進める。

なお本書全体を通じて、大諸侯の個人名などは覚えなくていいでしょうが、ブルゴーニュ・シャンパーニュ・ヴェルマンドワ・ノルマンディー・ブルターニュ・ブロワ・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌ・ポワトゥー・アキテーヌ・ギュイエンヌ・ガスコーニュ・ラングドック・プロヴァンスなどという地方名が大体どこら辺りにあるのか、曖昧にでも頭に浮かぶようにした方がいいです(以上パリを中心に大体反時計回りに名を挙げているつもりです[あくまで大体])。

次がルイ7世(若王) 1137~1180年。

この人については、石井美樹子『王妃エレアノール』(朝日選書)を読んで、かなり知っている。

第2回十字軍と「アンジュー帝国」との戦い。

その息子が有名なフィリップ2世(オーギュスト・尊厳王) 1180~1223年。

カペー朝屈指の名君で、第3回十字軍と大陸のプランタジネット家領の多くを奪った功績は、高校教科書の通り。

リチャード1世にはしばしば敗れ、一進一退を繰り返すが、ジョン王には決定的勝利を得る。

高校世界史には出てこないが、極めて有名な1214年ブーヴィーヌの戦いでジョン王と同盟した神聖ローマ皇帝オットー4世の軍を破る。

(ジョン王自身はこの戦場にはおらず、南フランスから攻め込んで敗退。)

これでヴェルフ家のオットー4世は没落、帝位はシュタウフェン家に戻り、1215年フリードリヒ2世即位。

同年ジョン王はマグナ・カルタ承認。

高校世界史を履修した多くの人が思うでしょうが、これだけ敗北と失政を続けたジョン王ってある意味すごいなあ・・・・・と思います。

結局フィリップ2世時代にヴェルマンドワ・ノルマンディー・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌ・オーヴェルニュ・ポワトゥーの一部を王領に併合。

ルイ8世(獅子王) 1223~26年。

例外的に短い在位。先代が始めたアルビジョワ十字軍を続行、南仏で従軍中に赤痢で死去。

ルイ9世(聖王) 1226~1270年。

12歳で即位、第六回(本書では第七回)十字軍(エジプト・ダミエッタ攻撃)、第七回十字軍(チュニス攻撃)、チュニスで客死。

ソルボンヌ大学創立、トマス・アクィナスと交流。

モンゴルにルブルック派遣。

弟シャルル・ダンジューがシュタウフェン家に替わってナポリ・シチリア王に。

兄は聖人だが、この弟はかなりのクセ者といった感じ。

フランス支配に対する反抗(1282年「シチリアの晩鐘」)が起こり、シチリア島はアラゴン王家が迎えられ、南イタリアのナポリはフランス系王家が続くが、中世末にナポリもスペイン系支配下に入り、それを不服とした仏国王シャルル8世が1494年攻め込んでイタリア戦争が始めるという経緯だったはずだが、うろ覚えではっきりしない。

フィリップ3世(勇敢王) 1270~1285年。

相続関係でトゥールーズ伯領の王領編入に成功。

シャンパーニュ伯(兼ブロワ伯)を継承した女子と息子フィリップ(次王の4世)との結婚にも成功。

アヴィニョンを教皇に寄進。

ここに「教皇のバビロン捕囚」で教皇庁が移されたわけだが、南フランスにあるとは言え、形式的にはアヴィニョンは(大革命まで)フランス領ではなく教皇領の飛び地だったそうです。

教科書を見ると確かに「南フランスのアヴィニョン」に移したと書いてあって、「フランス領のアヴィニョン」に移したとは書いてない。

つまり後者の書き方をした問題文で正誤問題を作れるわけだが、さすがにこんな凶悪な引っ掛け問題はどこの私大でも出さないでしょう。

上記シチリア反乱を受けてアラゴンに遠征中、陣没。

フィリップ4世(美男王) 1285~1314年。

この人も、三部会・アナーニ事件・アヴィニョン教皇庁・テンプル騎士団弾圧という盛り沢山の治績が高校教科書に載っている。

ルイ10世(喧嘩王) 1314~1316年。

ごく短い治世で貴族の反乱に苦しむ。

この王が急死した後、初めて王位継承で支障が起こる。

死去の時点で王妃が妊娠しており、男子を出産、ジャン1世と名付けられ、またもや奇跡が続くかと思われたが、不幸にして数日後に死亡してしまった。

結局、ルイ10世の弟フィリップ5世(長身王)[1316~1322年]が即位、貴族反乱鎮圧のための軍資金徴収の目的もあって三部会重視の国政運営を行うが、息子は早世しており、男子を残さず死去。

さらに弟のシャルル4世(悪王)[1322~1328年]即位。

イングランド王エドワード2世に対し、アキテーヌ公領の没収を宣言、叔父(フィリップ4世の弟)ヴァロワ伯シャルルがアキテーヌ制圧。

結局エドワード2世は王太子エドワードに公の称号を譲り、公領の役人はフランス王が派遣するという高圧的取り決めが結ばれる。

エドワード2世の妃はフィリップ4世の娘でシャルル4世の妹イザベル。

イザベルが王太子エドワードを擁し、夫エドワード2世を廃位、息子をエドワード3世として即位させる。

シャルル4世が死去した時点で、またもや息子は早世しており、上記ヴァロワ伯シャルルの息子でシャルル4世のいとこに当たるフィリップ6世が即位、ヴァロワ朝を創始。

それに対してエドワード3世がフランス王位継承権を主張、1339年百年戦争を始めるわけで、それはまあわかるんですが、このヴァロワ朝の成立については、「こんなことだけで、王朝交代になるんですかあ?」という気がする。

国王兄弟が三人続けて死去するのは確かに「断絶」という印象を与えるが、フィリップ3世→ヴァロワ伯シャルル→フィリップ6世と男系で繋がっていて、そんな以前に枝分かれしたわけでもなく、一世代前の国王の弟の息子が即位しただけなのになあ・・・・・と思わぬでもない。

何かの本で系図を見て頂ければわかるんですが、ヴァロワ朝内部のシャルル8世からルイ12世、ルイ12世からフランソワ1世への継承の方が、よっぽど「不連続」を感じさせるのですが・・・・・。

この辺、結局よくわかりません。

分量が少なく読みやすい。

かなり重厚な本じゃないと載っていないような無名の国王を一人一人取り上げて解説してくれているのは大変貴重。

確実に押さえておくべき良書と言えます。

フィリップ6世(1328~1350年)

王権を大いに伸長したフィリップ4世の子、ルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世(とルイ10世の嬰児ジャン1世)が次々に死去。

王朝成立以来、奇跡とも呼ばれる単線的な父子継承を続けてきたカペー朝もさすがに断絶。

フィリップ4世の兄弟ヴァロワ伯シャルルの子フィリップ6世が即位、ヴァロワ朝が成立。

と言っても、要は従兄弟に王位が移っただけである。

ここで前著『カペー朝』の記事末尾で、私が書いた疑問に触れられている。

なぜこの程度の継承が王朝交替と見なされるのか、後述のヴァロワ朝内部の継承では、より不自然なものが見られるのに、という疑問です。

結論は、英国王エドワード3世が異議を唱え、王位継承権を主張し、百年戦争という大事件が勃発したため、結果として王朝交替と見られるようになった、ということです。

フィリップ4世の娘で三国王の姉妹イザベルがエドワード2世と結婚、そこから生まれたのがエドワード3世。

先代エドワード1世がウェールズ征服を成し遂げたのに対し、エドワード2世はスコットランド王のロバート・ブルースに大敗、イザベルは、このように失政の多かった夫を宮廷クーデタで廃位し、息子の3世を王位に就けている。

1339年フランドル伯領の争いも絡んで百年戦争勃発。

ブルターニュ公国の継承争いにも英仏が介入。

1346年、北仏を西から東に荒らしまわるエドワード3世にフィリップ6世が応戦し、最初の決定的な戦闘、クレシーの戦いが起こる。

英軍が国王の命令一下、騎兵が下馬して敵を待ち受けたのに対し、統制の取れない仏軍は中世騎士の習いでただただ突進するだけ。

左右に配置された英軍の長弓兵の餌食となり、その後騎兵の突撃を受けて、仏軍は大敗。

王弟、フランドル伯など重要人物の戦死も相次いだが、その中にボヘミア(ベーメン)王ヨハンがいたことを記憶しておく。

ヨハンはルクセンブルク朝神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の子で、のちの皇帝カール4世の父、ジギスムントの祖父に当たる。

このクレシーの戦いが1346年です。

年号をもう一度見て下さい。

「何か、もうすぐとんでもないことが起きそうだなあ」と感じませんか。

思いません?

出来れば思いついて欲しいんですが。









1348年前後の黒死病の大流行です。

(1648年ウェストファリア条約、1848年仏二月革命・独三月革命など全欧規模の革命、と並んで憶えるべき「三つの48年」の一つです。)

ヨーロッパ全域で人口の三分の一が失われたとも言われる、破滅的な災厄となった。

フィリップ6世はドーフィネ候領を購入して獲得するなど(フランス王太子の称号ドーファンの語源)、手堅い政治的手腕を見せたこともあったが、その治世はやはり散々なものと言わざるを得ない。

1350年崩御、子のジャンが跡を継ぐ。







ジャン2世(1350~1364年)

高校世界史では用語集にだけ名前が出るレベルの国王だが、正直、ローマ帝国のヴァレリアヌス帝やオスマン朝のバヤジット1世と並んで、「捕虜になった人」というイメージしかない。

父王に比べれば軍事的才能には恵まれており、国王の命令が貫徹される軍の設立を目指す。

1356年ポワティエの戦いが勃発。

友軍との合流に失敗した黒太子エドワードをジャン2世が捕捉、英軍六千、仏軍三万と数では圧倒的にフランス優位。

今回は仏軍騎兵も国王の命令で下馬したが、徒歩であっても単純な突撃戦法は変わらず、前回同様長弓の餌食となり、大敗を喫する。

ジャン2世自身も捕虜となるが、厳しい監禁生活は強いられず、王侯にふさわしい待遇を受ける。

この戦いで奮戦した王の末子フィリップが「豪胆公」と呼ばれるブルゴーニュ公の祖となったことは要記憶(他の本では「剛勇公」の訳語を当て、「豪胆公」(あるいは「突進公」)は四代目ブルゴーニュ公のシャルルに与えるものもある)。

危機の中、王太子シャルルは全国三部会を招集。

ところが、パリ商人頭(市長)のエティエンヌ・マルセル率いる平民議員は顧問会議による王権の掣肘を主張、王太子の側近が殺害されるなど、革命の様相すら見せ始める。

農村では1358年ジャックリーの乱が起こる。

王太子は両反乱を何とか鎮圧。

イギリスとの交渉では、ポワトゥー、アキテーヌ、カレー市周辺など王国の三分の一と莫大な身代金を代償にジャン2世解放。

で、履行保証のため、国王の身代わりに第二・第三王子などが人質になったのだが、第二王子が逃亡し外交問題になると、傑作なことにジャン2世は海を渡り、自発的に再度捕虜になった。

本書でも記されているように、一国の統治者としては軽率な振る舞いかもしれないが、戦争に国民的憎悪が不在で、名誉とフェア・プレイを重んじる中世の理想が存在していたことは称賛に値すると言うべきかもしれない。

ジャン2世はそのままロンドンで客死。







シャルル5世(1364~1380年)

初代、二代目と散々な治世が続いたヴァロワ朝だが、このシャルル5世の時代に顕著な立ち直りを見せる。

神聖ローマ皇帝カール4世は母方の伯父にあたり、王太子時代に金印勅書発布の場にも居合わせたという。

病弱ではあるが、頭脳明晰、着実に事を進める堅実さを持つ。

タイユ(人頭税・直接税)、エード(消費税・間接税)、ガベル(塩税・間接税)という大革命に至るまで王国財政の基礎となる恒常的全国課税制度を確立。

それまで直接支配する王領の年貢収入25万リーヴルほどに頼っていた王国の予算は、次代シャルル6世時代にかけて200万リーヴル規模に拡大したという。

デュ・ゲクランという小貴族を王国軍総司令官に抜擢、傭兵隊の弊害を避けるため、小規模ながら常備軍を整備。

フランドル伯継承者の女子と末弟ブルゴーニュ公フィリップ(捕虜から解放された際の父ジャン2世によって跡継ぎの無かった公に据えられていた)を結婚させ、ネーデルラントとブルゴーニュを結びつける(中世末期ブルゴーニュはフランスに併合、ネーデルラントは政略結婚政策でハプスブルク家領に)。

各地の要塞を整備、パリにバスティーユ要塞を建設したのもこの王。

ナバラ王国、ブルターニュ公領、カスティリャ王国にも介入。

イギリスとも再戦し、カレー、ボルドー、バイヨンヌなどの港湾都市とその周辺にのみ、英領を封じ込める。

1377年エドワード3世没、孫のリチャード2世即位。

1378年アヴィニョンとローマに両教皇並立(~1417年。教会大分裂[大シスマ])。

ブルターニュの併合には失敗した後、1380年シャルル5世崩御。







シャルル6世(1380~1422年)

シャルル5世の治世に大きく立ち直ったフランスだが、このシャルル6世時代にその国威はどん底にまで落ちてしまう。

11歳で即位。

叔父のアンジュー公、ベリー公、ブルゴーニュ公が補佐するが、その中でブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)が台頭。

ブルゴーニュ公に対し、バイエルン公家出身の王妃イザボー・ドゥ・バヴィエールと王弟ルイ(のちオルレアン公になり、ミラノ公ヴィスコンティ家の娘と結婚)が対抗、両者のバランスの上に、シャルル6世は親政を開始する。

だが、1392年頃から王は不幸にして精神異常の兆候を見せ始め、定期的に正気と狂気の間をさまようようになる。

国王という要を失った国は、ブルゴーニュ派とオルレアン派に分裂していく。

英仏間は長期間の休戦協定が結ばれ、シャルル6世の王女が英国王リチャード2世に嫁いだが、1399年リチャードは王位を奪われ、従兄弟のヘンリ4世が即位、ランカスター朝が成立。

1404年ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公が病没、子のジャン無畏公が登位。

ジャン無畏公はパリを占拠し、オルレアン公ルイとイザボー王妃は地方へ逃れる。

一時和解が成立したが、1407年オルレアン公がブルゴーニュ派に暗殺され、いよいよ両者の対立はのっぴきならないものとなり、宮廷内の勢力争いから、武力衝突を伴う内乱のレベルになってしまう。

新たにオルレアン公となったのは子のシャルルで、その後ろ盾になったのが義父の有力諸侯アルマニャック伯だったので、以後オルレアン派はアルマニャック派と呼ばれるようになる。

両派ともにイギリスに支援を求めるという致命的行為を為し、それに消極的だったヘンリ4世が1413年死去すると、替わったヘンリ5世は再度フランスに上陸。

ブルゴーニュ派は「カボッシュの乱」という混乱を引き起こしてしまい、パリを退去、替わってアルマニャック派が入城、中央政権を奪取。

このアルマニャック派政権とヘンリ5世軍が激突したのが、1415年アザンクールの戦い。

クレシー、ポワティエと同じく、数では四分の一以下のイギリス軍が長弓兵の威力で圧勝、仏軍は惨敗する。

さらに、王太子と弟が病没、シャルル6世の末息子シャルルが王太子に昇格、アルマニャック派の旗印になる。

王太子は政争の種となってきた母イザボーを追放するが、イザボーはブルゴーニュ派に投じ、パリを奪還、再びブルゴーニュ派がフランス王家を代表することになる。

これまで親イングランド政策を続けてきたジャン無畏公だが、ヘンリ5世がパリ進軍の気配まで見せるようになると、さすがにアルマニャック派との和解に動く。

王太子シャルルとの会見が準備されたが、そこでジャン無畏公が暗殺されるという衝撃的事件が起こる。

この破滅的事件で内乱への最後の箍が失われてしまった。

激昂したブルゴーニュ派と三代目の公フィリップ(善良公)は「アングロ・ブールギィニョン同盟」を締結、アルマニャック派を不倶戴天の敵と見なし、フランス王国の保全よりもアルマニャック派への復讐を優先するようになる。

後世から見て、党派争いの為に敵国と結ぶのは「裏切り」「売国」の印象が強く、百年戦争におけるブルゴーニュ派にはどうしてもそのイメージが付きまとうが、ナショナリズムと国民国家成立前にはそれが奇異で嫌悪すべきものとの感覚が共有されていなかったし、そもそもブルゴーニュ公も三代目となると、フランス人というより重要な領地であるフランドル人としての自己意識の方が強かったのではないかと本書では述べられている。

1420年トロワ条約締結。

将来のシャルル6世死後、その王女と結婚したヘンリ5世がフランス国王となり、英仏両王国は統合され、同君連合を結び、王太子シャルルは廃嫡される、との内容。

もしこれが実現していたら、世界の歴史は全く変わっていたはずである。

しかし、運命の女神はそのような道を許さなかった。

1422年ヘンリ5世は35歳の若さで死去、その後同年中にシャルル6世も亡くなるが、わずか二ヵ月の差で、ヘンリ5世はフランス王にはなれず。

後継ぎのヘンリ6世はまだ赤子に過ぎず、もしヘンリ5世が強健なまま、王太子シャルルと対峙していたら、との空想は興味深い。







シャルル7世(1422~1461年)

身体能力に恵まれず、外見もぱっとせず、利発とも言えないこの王が百年戦争を勝利に導くことになる。

父シャルル6世の摂政に指定されたアンジュー公家の娘と結婚、賢夫人と定評のある義母ヨランド・ダラゴンの影響を受ける。

父の死後、フランス国王即位を宣言したが、イングランド・ブルゴーニュ派からは「ブールジュの王」と呼ばれる。

ただ、教科書などでは、このシャルル7世の即位当初のフランスを「崩壊寸前」と描写しているものも多いが、この最悪の時期でも中部から南部にかけて、フランス王国の半ば以上はシャルル7世の支配下にあり、あまり窮状を誇張すべきでもない、という意味のことが書かれている。

とは言え、アルマニャック派内部の政争もあり、厳しい状況だったのは確かである。

そこに1429年ジャンヌ・ダルクが登場し、オルレアンの包囲を解いて入城する。

ジャンヌが王と会見し、信頼を得たのはヨランド・ダラゴンの手引きであり、王に語ったのは母イザボーの奔放な振る舞いから、本当は自身が父王の子ではないのではないかとの疑惑を払拭するに足る出生の秘密ではなかったか、との説もあるが、この辺の真相は永遠に不明でしょう。

オルレアン包囲戦について、ジャンヌの戦術自体は単純で、持久戦となり、各砦に戦力を分散させ過ぎていたイングランド軍を、ジャンヌの登場で戦意が向上していたフランス軍が各個撃破した、というもの。

その背景として、長年続いた戦争とその被害によって、フランスの国民意識が固まりつつあったこと、そのナショナリズムの象徴がまさにジャンヌ・ダルクだったとされている(ジャンヌ自身、ブルゴーニュ公には同じフランス人として和平を勧める手紙を送っている)。

オルレアン解放後、ランスでシャルル7世の戴冠式が挙行されるが、1430年ジャンヌは捕虜となり、31年火刑に処されてしまう。

だが、1435年アラスの和で、ブルゴーニュ派との和平達成、翌36年にはパリ回復。

残るはノルマンディーとギュイエンヌ(アキテーヌ)の二地方だが、シャルル7世は焦らず、大商人ジャック・クールを用い財政制度と常備軍を整備。

ブルターニュ公を親仏派に転向させた上で、1450年ノルマンディーを征服、1453年ボルドーを陥落させ、ギュイエンヌも解放、これで遂に百年戦争が終結。

戦後、王国の行政制度を整え、1461年シャルル7世没。

即位時と崩御時の王国の状況は天と地ほど異なっている。

やはり「勝利王」の名に値する国王であると思われる。







ルイ11世(1461~1483年)

シャルル7世とフランソワ1世の間に在位した三人の王は最も馴染みがない。

「シャルル7世から即8世に行かず、二人のルイが挟まっている」と憶える。

百年戦争終結前後のフランスの課題は、ブルゴーニュ公とブルターニュ公に代表される諸侯の勢力を削減すること。

だが、王太子時代のルイ11世は父シャルル7世にしばしば逆らい、それら大諸侯と共謀し、王に反抗している。

シャルル7世死去時には、ブルゴーニュ公フィリップ善良公の下に身を寄せていた。

即位後は前王の側近を追放、恣意的・強権的統治を敷き、「暴君」との評も得る。

だが、ブルゴーニュ公、ブルターニュ公らの反抗を圧伏することでは、かつての父王と同じ立場に立つことになった。

フィリップ善良公死後、後を継いだシャルル突進公と衝突を繰り返す。

シャルル突進公はますます独立傾向を強め、ブルゴーニュとフランドル間の地域も併合し、独仏間に強大な独立王国を建設することを目論むが、それに対してロレーヌ公、アルザス諸都市、スイス諸州が立ちはだかる。

1477年シャルル突進公は、ロレーヌ公とスイス諸州の連合軍に敗れ、戦死。

細かな話だが、ブルゴーニュは西のブルゴーニュ「公」領と東のブルゴーニュ「伯」領に分かれ、東の伯領は「フランシュ・コンテ」と呼ばれる。

突進公戦死後、ブルゴーニュ公領はフランス王国に併合される(フランシュ・コンテが仏領となるのは1679年オランダ戦争を終結させたナイメーヘン条約によって)。

しかし、突進公の一人娘マリーは身柄を拘束されることなくフランドルに逃れ、ハプスブルク朝皇帝フリードリヒ3世の息子マクシミリアンと結婚、これでフランドルはハプスブルク家のものとなってしまう。

だが、アンジュー公親王家の断絶を機に、元は神聖ローマ帝国に属していたプロヴァンス伯領の併合に成功。

北東部でフランドルを失い、南東部でプロヴァンスを得て、中世フランス王国と現在のフランス共和国の領域変化が概ね完成。

最晩年のルイ11世は異常なほど信心深くなり、半狂乱に近かったとも言われる。







シャルル8世(1483~1498年)

ルイ11世47歳の時の子。

そのせいもあってか、厳重に保護され、外の世界と接触しないまま育てられる。

1483年13歳で即位、当初は王姉夫妻が実質統治、オルレアン公ルイ2世(初代ルイの孫、二代目シャルルの子、後にルイ12世として王位に就く)と勢力争いを演じる。

それまで、北仏のラングドイルと南仏のラングドックに分かれて開かれていた三部会が、文字通り全国三部会として開催されるようになる。

ブルターニュ公が死去、後を継ぐ男子はおらず、公女アンヌとシャルル8世が結婚、これでブルターニュの併合が既定路線となる。

親政を開始したシャルル8世は、幼少期の反動からか、空想とロマンに突かれた言動を見せ、それがフランス王国をイタリア戦争に導く。

1494年から1559年まで断続的に続いた近世初頭におけるヴァロワ朝フランスとハプスブルク朝神聖ローマ帝国(とスペイン)間のこの大戦争は、主権国家体制の確立に大きな影響を与えたが、結局イタリアがスペインの支配下に置かれて終結する。

13世紀、神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝断絶後、その領地だった南イタリア王国をルイ9世の弟でアンジュー伯のシャルル・ダンジューが支配。

フランス支配に反発する「シチリアの晩鐘」という反乱が勃発、シチリア島はアラゴン王家出身者が統治、ナポリはアンジュー家が支配するようになるが、中世末期シチリア王国がナポリを併合。

これを継承権の根拠に、1494年イタリア侵攻を開始。

大軍を擁し、ナポリ入城を果たすが、イタリア内外の諸列強が連合し、ナポリを確保できず。

シャルル8世は1498年城の改築中に柱を頭にぶつけて、28歳の若さで事故死、ヴァロワ朝の直系は途絶える。







ルイ12世(1498~1515年)

シャルル6世の弟が初代オルレアン公ルイ、子がシャルル、孫がこのルイ12世。

即位でヴァロワ・オルレアン朝が成立したとの見方もある。

冷静沈着で温厚寛容な人柄で名君との評も得たが、減税の為に「官職売買」という、大革命に至るまで大きな弊害を残す制度を始めてしまう。

イタリア戦争を継続、初代オルレアン公の妃がミラノ公ヴィスコンティ家出身だったことを根拠に、スフォルツァ家統治に替わったミラノの継承権も主張。

一時ミラノ占領に成功、続いてナポリにも出兵するが、奪回され、以後特にナポリはヴァロワ朝諸王の手には二度と入らないことになる。

1515年死去。







フランソワ1世(1515~1547年)

初代オルレアン公ルイ1世の次男が初代アングレーム伯、その孫がフランソワ1世。

分家の分家が後を継いだわけだから、以後の王統はヴァロワ・アングレーム朝とも呼ばれる。

身長2メートルを超え、陽性で派手好き、活動的な性格、絢爛豪華なルネサンス君主として君臨する。

1519年神聖ローマ帝国皇帝位を争い敗れ、即位したカール5世は終生の宿敵となり、イタリアで死闘を繰り広げるが、1525年パヴィアの戦いで惨敗、フランソワ1世自身が捕虜となる。

内政ではレオナルド・ダ・ヴィンチを招くなどルネサンス文化を保護したが、カルヴァンらの宗教改革については徐々に厳しい姿勢を見せ始める。

1547年死去した際には、オスマン朝やドイツの新教徒との連携も空しく、イタリアは失われており、悪化した財政が残された。

その華やかなイメージは強い印象を与えるが、治世の実績はあまり芳しくないと言わざるを得ないかもしれない。







アンリ2世(1547~1559年)

フランソワ1世まで来ると、後はかなり楽。

その子と三人の孫でヴァロワ朝が終わるので(最後に三兄弟が相次いで即位するというのは、奇しくもカペー朝と同じ展開である)。

まず子のアンリ2世が即位。

妻がメディチ家出身のカトリーヌ・ドゥ・メディシスだったことは当然要チェック。

父のフランソワ1世が捕虜になった際、解放の代償として人質に出され、スペインで一時囚人のような扱いを受ける。

その復讐心もあってか、イタリア戦争を再開、シュマルカルデン戦争中のドイツ新教徒と連携、フランソワ1世の父がサヴォワ家の女性と結婚していたことを根拠に、フランスと隣接し保持しやすいピエモンテに食指を動かす。

内政では後に職務別大臣制の先駆となる地域別の国務卿を設置、諸州巡察制度を整備し、権限の大きな州総督も設置するが、自身の治世中はその独立傾向を抑制し得た。

ギーズ公(当主フランソワ)派とモンモランシー元帥派(甥のコリニー提督を含む)の党派対立が激しくなる。

主戦派のギーズ公がイングランドからカレーを奪回、大陸の最後の英領が消滅。

だが戦局は好転せず、1559年カトー・カンブレジ条約締結、これによって半世紀以上続いた、長い長いイタリア戦争がようやく終結。

シャルル8世以来のイタリア戦争の細かな経緯が本書でも記されているが、憶えるのはかなり苦しい。

結局、ミラノもナポリもサヴォイアも、継承権を主張した地域は全く得ることができず、イタリアはスペインの実質的支配下に入ったことだけをチェック(イタリア統一支持の代償にサヴォイアだけは第二帝政時代に仏領となったのは高校世界史で既出)。

和平後、ドイツのプロテスタントと同盟したアンリ2世は、国内のユグノーに対しては強硬姿勢で抑圧に向かう。

ユグノーはすでに王家にも信者を持ち、フランソワ1世の姉妹マルグリットとナバラ王との間の娘ジャンヌ・ダルブレはそうであり、その夫アントワーヌ・ドゥ・ブルボンは態度を明確にしなかったが、その弟コンデ大公ルイ・ドゥ・ブルボンは新教徒であることを公言。

1559年アンリ2世は騎馬試合に出場した際、事故で槍が頭部に刺さり、事故死。

この死をノストラダムスが予言していたとされているのは有名。

アンドレ・モロワ『フランス史』を読み返して気付いたのが、このアンリ2世に対する評価の意外な高さ。

16世紀前半、結局敗れたとは言え、スペインとオーストリアの両ハプスブルク帝国に対し戦いを挑み、ヨーロッパの一国支配阻止と勢力均衡維持に貢献したヴァロワ朝フランスが、世紀後半には国内の宗教戦争で混迷を極め、そのバランサーとしての役割をイギリスとオランダに譲ることになったのは、このアンリ2世の不慮の死という偶然も与っているのかなと思った。







フランソワ2世(1559~1560年)

アンリ2世とカトリーヌ・ドゥ・メディシスとの間の王子で順当な即位だが、極めて病弱で、ごく短い在位。

この王については、妻が誰であったのかを必ず記憶しておく。

スコットランド女王メアリ・ステュアート。

イングランドを睨んだ政略結婚だが、メアリ・ステュアートの母はギーズ家出身なので、ギーズ公フランソワは叔父、ギーズ公アンリは従兄弟に当たる。

ギーズ公派は熱心な旧教徒としてユグノーを弾圧。

フランソワ2世と母后カトリーヌは融和策に努めたが、フランソワ2世は病死。

子の無いメアリ・ステュアートは母国に送り返され、後に王位を失い、イングランドに逃亡して捕らわれ、最後は処刑される(ただしその子がジェームズ1世として英国王となる)。







シャルル9世(1560~1574年)

フランソワ2世の弟が即位。

母后カトリーヌが実権を握る。

まず頭の中で「カトリーヌ・ドゥ・メディシス=サン・バルテルミの虐殺の実行者=狂信的カトリック」という図式がもしあれば(私は高校時代このようにイメージしていました)、それを一度完全に白紙にして下さい。

少なくとも当初カトリーヌが追求したのは、新旧両派の融和と王国の安定。

三部会を招集し、新教の限定的容認を定めたが、非妥協的な党派感情が激化する一方で、不幸にして実を結ばず、1562年ユグノー戦争勃発。

旧教側がギーズ公、新教側がコリニー、コンデ大公が中心、モンモランシーとナバラ王アントワーヌ・ドゥ・ブルボンは旧教側に付く。

この内乱が以後断続的に世紀末まで続く。

ギーズ公フランソワが暗殺され、
ギーズ公フランソワが暗殺され、ナバラ王が戦傷死した後、一時戦火は収まるが、折から1568年オランダ独立戦争が勃発、この国外の事件を機に再度対立が深まる。

コンデ大公が戦没、ギーズ公アンリは王妹マルグリットとの醜聞で失脚、王弟アンリが旧教側の指導者として台頭。

コリニーと並ぶ新教徒の指導者で、アントワーヌの子ナバラ王アンリ・ドゥ・ブルボンと王妹マルグリットとの結婚が両宗派和解の為に決められるが、1572年その婚礼時に勃発したのが、サン・バルテルミの虐殺。

コリニーら多くの新教徒指導者が惨殺され、ナバラ王は捕らわれの身に。

母カトリーヌからの影響を脱し、エキセントリックで異常な行動を見せるようになったシャルル9世の決断と見られる。

王弟アンリが、ヤギェウォ朝断絶後選挙王制となっていたポーランドの国王に選出され、国を離れる。

新教徒はフランス南西部を中心に徹底的に抵抗。

1574年半狂乱に近い状態でシャルル9世は死去。







アンリ3世(1574~1589年)

またもや弟が即位。

兄の死を聞くと、王位に就いていたポーランドを抜け出し、帰国。

即位前は強硬な旧教派だったが、国王となると強硬派だけに密着するわけにはいかなくなる。

モンモランシー家など穏健派カトリックが第三勢力として台頭、宗派よりも政治優先という意味で「ポリティーク派」と呼ばれるようになり、王弟フランソワが担ぎ上げられる。

オランダの君主としてフランソワを迎える動きもあったが、結局実現せず、フランソワは病死。

こうなると、子が無く、男色家の噂のあるアンリ3世の死後、最も近い王位継承者はナバラ王アンリ・ドゥ・ブルボンということになる。

ナバラ王の父の家系ブルボン親王家は、はるか昔、ルイ9世の六男を祖としており、しかもその分家筋だから、王家の末裔とは言え、ずいぶん離れている。

母方はやや近く、上述の通りフランソワ1世の姪ジャンヌ・ダルブレがナバラ王アンリの母であり、そして王妹マルグリットと結婚している。

新教徒とポリティーク派が同盟、旧教派のギーズ公アンリと激突。

アンリ3世とカトリーヌは旧教派に担がれているものの、本心では妥協を求め、右往左往するばかり。

1588年(スペイン無敵艦隊敗北の年だ)パリを中心にますます強硬になる旧教派は事実上のクーデタを起こし、実権を掌握、アンリ3世はパリを逃れる。

激昂した王は側近に命じ、ギーズ公アンリを暗殺させる。

翌1589年カトリーヌが死去、追い詰められたアンリ3世はナバラ王と手を結び、パリを包囲。

しかしここでアンリ3世は旧教派の報復の刃に倒れ、暗殺される。

ナバラ王アンリが、アンリ4世として即位、ブルボン朝が始まることになる。

末尾でヴァロワ朝の治世が総括されている。

14世紀から15世紀前半の百年戦争、15世紀後半のブルゴーニュ戦争とブルターニュ戦争、16世紀前半のイタリア戦争、16世紀後半のユグノー戦争、と戦いと国難の連続だった。

しかし、豊かな国土と膨大な人口を持つ、中近世におけるヨーロッパ最大の国家であるフランスはその都度、すぐさま再起することが出来た。

カペー朝の王権拡張と国家統一政策を引き継いだヴァロワ朝は、ブルゴーニュとブルターニュの二大公国を併合、オルレアン公領やアングレーム伯領もルイ12世、フランソワ1世の即位により王領となり、ヴァロワ朝末期には王権に対して実質的独立性を持つ有力諸侯はもはや存在しなくなった。

確かに依然フランスの一体的国家意識よりも地方郷土のアイデンティティを優先する感情は強かったし、カトリックあるいはプロテスタントの信仰を国家統一より重視する考えも濃厚だった。

それがヴァロワ朝末期のユグノー戦争で爆発することになった。

王権を神聖化することによって、それらの障害を克服し、完全な中央集権的統一国家を創り上げることが、次代のブルボン朝の課題となる。




フランス 年表 - ミラーマンレオ

2018/01/29 (Mon) 19:39:11

フランス年表 高校レベルで重要な出来ごとの年表を作るとすれば

紀元前1世紀 ローマ帝国の属領に
西暦5世紀頃 ゲルマン民族の大移動、フランク族が現在のフランスに定住
481年 クローヴィスがフランク王に
732年シャルルマーニュがイスラム教徒との戦いに勝つ(ツール・ポワチエの戦い)
800年 シャルルマーニュ(カール大帝)が、ローマ教皇から皇帝位授受
843年 ヴェルダン条約で、フランク帝国が分裂していく
987年 カペー朝始まる
14~15世紀 イングランドとの間で百年戦争<少女ジャンヌダルクの登場で勝利>
16世紀 国内で宗教対立・騒乱多発(カトリックと新教ユグノー派)
1584年 宗教対立収束させたアンリ4世が即位・・・ブルボン王朝の開始・・・
17世紀 絶対王政の最盛期・・・ルイ14世が統治1643~1715 <バロック芸術>
18世紀 英国との間で、7年戦争、<啓蒙主義の風潮>
1774年 ルイ16世即位
1787年 三部会召集
1789年 フランス革命勃発、バスティーユ陥落
1792年 王政廃止、共和制へ
1793年 ルイ16世、マリーアントワネット王妃処刑、革命派の恐怖政治
1794年 テルミドールの反動、ジャコバン派指導者のロペスピエール処刑
1799年 英雄・軍人ナポレオンが、政府の第一統領に就任。
1804年 ナポレオンが皇帝に就任。
1814年 対フランス連合軍に敗れたナポレオンをエルバ島に追放。ウイーン会議。
1815年 ナポレオンの百日天下。
1815年 ワーテルローの戦いで、英国・プロシア軍に敗れ、ナポレオン再度追放。
王政復古。
1830年 7月革命勃発、シャルル10世亡命。
1848年 2月革命勃発。ルイ・フィリップ退位。
1848~1870年 英雄ナポレオンの甥にあたる、ルイ・ナポレオンが大統領、
その後、皇帝に<ナポレオン3世>
1870年 普仏戦争でプロシアに敗れる。ナポレオン3世退位し、再び共和制に。
1914~18年 第1次世界大戦
1939~45年 第2次世界大戦

イギリス王 - ミラーマンレオ

2018/01/23 (Tue) 20:40:42

イギリス国王たち

ジョージ1世
ジェームズ1世のひ孫。政治に無関心。英語できない。不倫を理由にゾフィア・ドロテアと離婚、32年間幽閉。不人気。ジョージが名の王は父子は不仲。

ジョージ2世
戦争好き。英国よりハノーヴァーに愛着?ウォルポールも大ピットも嫌い。癇癪もち。

ジョージ3世
在位60年。ハノーヴァー家に珍しく生真面目(愛人無し)。信心深い。フランス革命のときは国家団結の象徴。
妃シャーロットは嫡出子15人。ときどき狂気、精神異常(遺伝性のポリフィリン病)。子供は不良、粗野で下品、奇人揃い。最高の政治判断:ノース(英国史上最低首相)➡小ピット 
トーリー党の忠実な支持者。


ジョージ4世
52歳で摂政。58歳で王位。ホイッグ党支持。父と妻キャロラインと不仲。ヘンリー8世以来の離婚問題。
贅沢、女性問題。借金。イングランド一のジェントルマン。男子無し
グレイ伯爵とホイッグ党が嫌い。
ウェリントンとは親しい。

ウィリアム4世
ジョージ3世の三男。65歳で即位。
「航海王」情け深い。時折奇行。
愛人ドロシー・ジョーダンの間に10人の庶子。
グレイ伯爵(ホイッグ党)の友人。
王権が衰える一方。

ヴィクトリア女王
王位64年。
子孫はさまざまな王位を継承。
ヴェルヘルム2世は孫、ニコライ2世妃は孫娘。

エドワード7世
最も長いプリンスオヴウェールズ(60年)
社交界の遊びに夢中、活動的。
女遊び。快楽、道楽者。裁判沙汰。
政務関与を母が拒絶➡不満にディズレーリだけが理解者

ジョージ5世
次男。ハノーヴァーには珍しくエドワード7世との父子関係良好。
妃メアリーはヴィクトリア女王が見初めた兄エディの元婚約者だった。
ロイドジョージは好きでない。
理想的な王室、人びとの手本を目指す。
ニコライ2世らの英国亡命を、相当な費用
と、嫌われた君主の受け入れは英国に不利益だと拒否し、ロシア王家の殺害の
責任がある?
健全。単調。出不精(海外)
息子の暮らしぶり、友人関係、服装が気に入らない。

エドワード8世
41歳で王位。スター的資質、人気。
妻を受け入れなかった母と弟は許せない。

ジョージ6世
カリスマ性の兄の陰。ひ弱、乞音。
王位は仕方なく継いだ。
生涯最大の決断はエリザベスとの結婚。

エリザベス2世
 国民に尊敬され愛された国王から、尊敬され愛される継承者が継いだ稀な事態。

ノルマン征服 - ミラーマンレオ

2018/01/19 (Fri) 07:49:10

ノルマン・コンクエスト(ノルマン征服)ノルマンディー公ギヨーム2世によるイングランドの征服

1066年のヘイスティングズの戦いに勝利したギヨーム2世はウィリアム1世としてノルマン朝を開き、イングランドはノルマン人により支配されることとなった。

ノルマン・コンクエストはイングランドの歴史の分水嶺となり、デンマーク付近(ゲルマン人の領域)の強い政治的・文化的影響から離れ、ラテン系のフランスと政治的にも文化的にも強く関係することになる。

なお、ノルマン人はイングランド人(アングロ・サクソン人やデーン人)と同様にゲルマン人の一種なので、異民族というほどでもない。ノルマン・コンクエストが比較的容易に進んだ一因に、どちらの民族もゲルマン人であったという点が挙げられる。

イングランド以外のウェールズとスコットランドとアイルランドには、ノルマン・コンクエストの支配・影響はあまり及ばなかった。これらの領域はもともとケルト人の勢力下にあり、ゲルマン人の勢力下にはなかった。後のこれらの地域でイングランドとの抗争や関係はノルマン・コンクエスト自体によるものではなく、ノルマン・コンクエスト以後の出来事による。

アイルランド - ミラーマンレオ

2018/01/18 (Thu) 08:39:46

アイルランド

ケルト系文化とカトリック信仰という独自の文化と有しているが、長くとなりのイングランドの支配を受け、1649年のクロムウェルによる征服以来はその植民地とされた。18世紀以降、激しい独立運動が展開されるも、1801年にイギリスに併合(連合王国)。1922年に自治を獲得したが、その北部はイギリスに留まり、分裂した状態となっている。北アイルランドを除いて、1949年にアイルランド共和国となった。

 旧石器時代の遺跡もあるが、前4000年ごろには農耕・牧畜が行われるようになっていた。その島に鉄器文明をもたらしたケルト人は、前5世紀ごろ、大陸から渡来したらしいケルト人は鉄器文明をもたらす。彼らはドルイドという司祭を中心とした独自の文化をもつ部族社会を形成した。

アイルランドとカトリック教会
アイルランドはカトリック信仰が根強く、現在でもイングランドの新教徒(国教会)とは対立している。アイルランドに正統派カトリック教会のキリスト教を伝えたのは、5世紀初頭から中頃、伝説的人物、聖パトリックによってであった。聖パトリックはアイルランドの守護聖人とされ、3月17日はセント・パトリック・デーといわれ、現在もアイルランドの国民的祝日とされている。
アイルランドの修道院
西ヨーロッパのキリスト教国のなかでアイルランドは修道院が教会を支配した唯一の国となり独自の修道院文化が発達。

ヴァイキングの襲来  
 アイルランドは、ブリテン島と違い、ローマの支配がも及ばず、ゲルマン民族の大移動期の侵入も受けなかったため独自のケルト文化が維持されたといえる。しかし、9~11世紀にはしばしばヴァイキングと言われたノルマン人の侵攻を受けたが、イングランドと異なりノルマン人の王朝が永続することはなかった。

アングロ=サクソン人の移住
 12世紀後半、イングランド及びウェールズから、アングロ=サクソン人がアイルランドに移住するようになり、先住民のケルト系ゲール人の土地を奪い、次第に領主化していった。1171年にイングランドのプランタジネット朝初代のヘンリ2世は、兵を率いてアイルランドに上陸して、主権を主張してアングロ=サクソン系の領主の土地を安堵し、臣従させた。ヘンリ2世の後のジョン王もアイルランドへの宗主権を主張し、ダブリンに官吏を置いて支配した。
 12~13世紀はアイルランドのイギリス化が進んだが、14世紀にはゲール系勢力が巻き返し、イギリス王権の弱体化もあって、アイルランドは、アングロ=ノルマン系の支配地域とゲール人勢力の支配する地域が拮抗する状態となった。イングランドの勢力はアイルランドを完全に支配することはできず、特に百年戦争とバラ戦争が続く中、イングランドの王権はアイルランドに及ばなく、アングロ系、ゲール系のいずれにも有力な氏族が成長した。

ヘンリ8世のアイルランド支配
 イギリス王は形式的にはアイルランド太守としてローマ教皇からアイルランドの支配をまかれているという建前であったが。宗教改革を断行してローマ教皇と関係を断ったヘンリ8世は1541年、みずからをアイルランド国王とすることを、アイルランド議会で承認させた。こうして形の上でアイルランドは独立した国であるがイングランドと同じテューダー朝の国王の支配を受けるという、同君連合の形態となる。それとともにイングランドから盛んに移民が行われた。しかし、アイルランドには国教会は浸透せず、カトリックが依然として有力なまま続いていた。

クロムウェルのアイルランド征服 
 ピューリタン革命の主導権を握ったクロムウェルは王党派=カトリックの討伐を口実に1649年にアイルランドを征服し、実質的植民地化を行った。
 アイルランドが大きな転機を迎えたのは、イングランドのピューリタン革命によって権力を握ったクロムウェルが、1649年にアイルランドが王党派の拠点になっているとの口実でアイルランドを征服し、植民地としたことであった。
 議会はクロムウェルをアイルランド総督に任命。アイルランドでは国王軍のオーモンド侯がカトリック軍と同盟、反議会の活動を展開していた。クロムウェルは虐殺、寺院の焼き討ち、残虐行為を行い「クロムウェルの恨み」を残し帰国した。その後、アイルランドでは、イギリスからの独立運動が激しく展開されることとなる。

ウィリアム3世のアイルランド征服  1688年、カトリック復興をもくろむ国王ジェームズ2世に反発した英国議会が、プロテスタントの擁護者としてオランダ総督オラニエ公ウィレム3世を迎え入れ、ジェームズはフランスに亡命した。(名誉革命)。オランダ軍とともに上陸してイギリス国王となったウィリアム3世を、カトリック勢力の強いアイルランドでは国王とは認めなかった。この情勢を見てジェームズはアイルランドに赴き、反ウィリアム勢力を結集して挙兵した。ウィリアム3世はオランダ軍を率いてアイルランドに出兵し、1690年7月のボイン川の戦いでジェームズとカトリック軍を破った。これは、クロムウェルから始まるイングランドのアイルランド征服が完成したことを意味している。これ以後、プロテスタントによるアイルランド支配が進み、カトリック地主の土地は取り上げられて、差別されていく。

イングランドによる併合
 18世紀後半にはアメリカ合衆国の独立、フランス革命の影響を受けて、アイルランドでも独立運動が始まった。イギリス政府は独立運動を抑えるためにアイルランドの併合に動き、1800年に合同法を成立させ、1801年にアイルランド併合を実行し、正式国号は大ブリテンおよびアイルランド連合王国となった。

アイルランド問題
 イギリスでは審査法によってカトリック教徒は公職に就くことができなかったため、アイルランドの多くのカトリック教徒は差別され、イギリスの支配に対する不満が強くなり、19世紀にはアイルランド独立運動はアイルランド問題となった。イギリスの「喉に刺さったトゲ」といわれた20世紀のアイルランド問題はさらに激しくなっていく。

アイルランド自由国
 1922年、イギリスはロイド=ジョージ挙国一致内閣が北アイルランドを除きアイルランドの自治国を認められて、イギリス連邦を構成する自治国になった。しかし、プロテスタントの多い北アイルランド(アルスター地方)はアイルランド自由国に加わらず、イギリスに残った。 
 前年の1921年、イギリスから提示されたこの分離自治をめぐってシン=フェイン党は分裂、全島の独立を目指すグループと北アイルランドを分離することを認めるグループで内戦となったが、結局後者が勝利して、北アイルランド6州を除く26州がアイルランド自由国となり、イギリスの自治領となった。1931年のウェストミンスター憲章でアイルランド自由国もイギリス連邦を構成する独立国となった。

アイルランド共和国
 1937年にアイルランド自由国の選挙で勝利したデ=ヴァレラ(完全独立派。アイルランド共和党)は、独立国家であることを宣言し、新憲法を制定(38年発効)して国号をゲール語でエール(エール、 エーレ、アイルランドのことを意味する)とした。
独立国家としてイギリス国王の王冠への忠誠を廃止を決めたので、事実上イギリス連邦から脱退することとなった。ただし、正式な脱退は第二次世界大戦後の1949年のことで、そのときに、国号をアイルランド共和国としたが、エール(アイレ)も併用されている。

現在はイギリスとの関係も改善され、1973年にはECに加盟した(拡大EC)。しかし、慢性的な財政不安を抱えている。

イギリスの宰相3 - ミラーマンレオ

2018/01/10 (Wed) 20:14:50


⚫ジョゼフ=チェンバレン
19世紀末~20世紀初頭のイギリスの。1895年から、植民相として南アフリカ戦争など帝国主義政策を推進。

 イギリスの工業都市バーミンガムの製造業者として成功し、バーミンガム市長として名をあげ、中央政界に進出した。はじめ自由党急進派に属し、グラッドストン内閣で商務院総裁などを務めたが、1886年、アイルランド自治法案をめぐって、イングランドとアイルランドの連合維持を主張してグラッドストンと対立し、1886年に自由統一党を組織した。こうしてアイルランド問題をめぐって起こった自由党が分裂の当事者となった。
 1895~1902年、第3次ソールズベリ内閣(保守党と自由統一党の連立内閣。この時期の両党を統一党ともいう)の植民相としてイギリスの帝国主義政策を推進し、特にケープ植民地のセシル=ローズらによるトランスヴァール共和国への侵略を支援した。セシル=ローズは間もなくその強引な手段が非難されて失脚したが、本国政府と植民地相ジョセフ=チェンバレンは、1899年の南アフリカ戦争を推し進め、1902年に勝利に終わらせた。植民地相として保護貿易主義に転じるようになり、翌年には閣僚を辞し、その後は高関税政策を主張するようになった。 → イギリス帝国主義政策
チェンバレンの二人の息子 ジョゼフ=チェンバレンの二人の息子も政治家として活躍している。長男ののオースティン=チェンバレンは後に保守党党首となり、外相としてロカルノ体制の樹立にあたり、1925年のノーベル平和賞を受賞した。次男のネヴィル=チェンバレンも保守党党首、首相としてナチス=ドイツの台頭期の舵取りを行い、宥和政策を採ってナチスの台頭を許し、首相の座をチャーチルに譲った。

⚫ロイド=ジョージ/ロイド=ジョージ挙国一致内閣

20世紀初頭、第一次世界大戦期のイギリス自由党の政治家。社会保険法、人民予算の実現、議会法制定などで国政で実績を上げ、戦争を指導し、パリ講和会議では対ドイツ強硬路線を主張した。
Lloyd-George 1863~1945

 ロイド=ジョージ David Lloyd-George 1863~1945 は、マンチェスターの小学校教員の父を生後すぐに失い、ウェールズの母の実家で育てられた。独学で法律を勉強し、弁護士資格を取った。イングランド人でもなく、オックスフォードまたはケンブリッジ大学出身でもなく、しかも国教徒ではない人物が、イギリスの政治の中枢に進出したことは注目すべきことであった。自由党に属して、政治と社会の改革を実行し、また第一次世界大戦ではその戦争指導にあたって連立内閣を組織、戦後のパリ講和会議ではアメリカのウィルソン、フランスのクレマンソーとともに指導的な役割を担った。ロイド=ジョージは20世紀前半のイギリスの代表的政治家の一人であり、帝国主義時代の世界で功罪共に重要な役割を担ったと言うことができる。

福祉と軍備

 彼は27歳で下院議員に当選、はじめはジョゼフ=チェンバレンの帝国主義政策に反対し、南アフリカ戦争を非難した。1908年、自由党のアスキス内閣が成立して蔵相に任命されると、自らドイツに視察にむかい、ビスマルクの社会政策以来のドイツの社会保障制度を調査し、帰国後、労働党の協力のもとに1911年に国民保険法を制定し社会改革を実行した。
 ドイツのヴィルヘルム2世の帝国主義政策の脅威が強まり、建艦競争を展開するようになると、その財源確保のため、富裕層への課税(累進課税)で乗り切ろうとし、上院がそれに抵抗すると議会法を成立させて予算決定での下院の優先の原則をうちたてた。上院(貴族院)の抵抗を排除し、下院優先の原則を確立したことはイギリス議会制度の歴史のなかで画期的なことであった。

ロイド=ジョージ挙国一致内閣

 第一次世界大戦が始まるとアスキス連立内閣の軍需相となり、ついで1916年から22年まで挙国一致連立内閣の首相を務めた。この内閣は、自由党・保守党・労働党の三党が戦争という非常事態にあたって挙国一致の協力体制を作りあげたものであった。1917年11月には外相の名でバルフォア宣言を出して、ユダヤ人のパレスチナ帰還と国家建設を指示し、ユダヤ系財閥の協力を取り付けた。1918年11月には、第一次世界大戦の休戦協定が成立し、挙国一致内閣の最大の課題は終了したが、戦後も内閣は存続し、パリ講和会議にはロイド=ジョージ首相自身がイギリス代表として参加した。
 パリ講和会議ではアメリカのウィルソン大統領、フランスのクレマンソーとともに中心メンバーとして活躍し、対ドイツ強硬論を主張して、ヴェルサイユ体制でドイツに対する厳しい条件の講和条件を盛り込んだ。
 内政では、1918年には、大戦中の女性の社会進出という情況を受けて、選挙法改正(第4回)してイギリスで最初の女性参政権を承認した。また1922年には懸案のアイルランド問題に一応の決着を付け、アイルランド自由国の自治を認めたが、北アイルランドはイギリス領として残したため、問題はその後も残ることとなった。
 その後、しかし大戦後は労働党に押されて自由党は後退し、権勢を失うこととなった。1945年死去。




⚫ネヴィル=チェンバレン
イギリス首相としてナチス=ドイツに対する宥和政策で対応、ミュンヘン会議でズデーテン地方の割譲を承認した。第二次世界大戦でドイツ軍のスウェーデン上陸を阻止出来ず、1940年5月、首相を辞任。

 イギリスの著名な政治家一家の出身。父のジョセフ=チェンバレンは19世紀末の植民地相として帝国主義政策を推進した。兄はロカルノ体制の時の外相オースティン=チェンバレン。ネヴィル=チェンバレンは保守党党首として首相(在任1937~40年)を務め、ナチス台頭期のイギリスの舵取りを行った。
宥和政策
 第一次世界大戦後のイギリスには、フランスが対ドイツの強硬策を主張したのに対して、賠償問題では敗戦国ドイツの復興を支援して負担を軽減し、あるいは軍備の平等化というナチス=ドイツの要求を正当なものと容認しようという意見が強かった。また一部にはナチス=ドイツの影響を受けたイギリス=ファシズムも台頭していた。またナチス=ドイツの台頭はボリシェヴィキのソ連を抑えるためには有効だという見方も強かった。イギリスの労働組合のストライキはコミンテルンが裏で糸を引いているという疑念を資本家階級は強く持っており、政権にとってもナチス=ドイツよりもソ連を危険視する見方が強かった。
ミュンヘン会談
 ネヴィル=チェンバレンもそのような宥和政策を継承し、さらにナチス・ドイツの領土的野心が露骨になる段階においても、一定程度の妥協をすることによってヒトラーを押さえ込むことが出来ると考えた。ヒトラーがオーストリア併合を実行し、ズデーテン地方の割譲を要求すると、民族自決というヒトラーの掲げる大義名分に反論することなくそれを容認した。1938年9月のミュンヘン会談ではフランスのダラディエに働きかけ、宥和政策によってヒトラーの要求をのみ、それに以上の侵略行為を阻止出来ると判断した。ネヴィル=チェンバレンの判断は、当時においてはヨーロッパの平和を維持するための現実的で勇気ある判断として大いに評価され、ミュンヘン会談を終えてロンドン空港に帰ったチェンバレンはイギリス国民から大歓迎を受けたのだった。
チェンバレンの誤算
 しかし、ミュンヘン会談のチェンバレンの判断はドイツ人の民族自決を認める一方で、主権国家であるチェコスロヴァキアとチェコ人の民族自決を無視するという最大の誤りの上に成り立っていた。また、議会制民主主義の破壊、国内での人権や自由の無視というヒトラーの独裁政治にたいしても無批判であり、単なる国家間取引で平和を維持出来るという楽観的な誤りであった。その背景にはソ連を危険視する前提があったことは確かである。結果として、ミュンヘンでのチェンバレンの判断はヒトラーの野心を野放しにするという、決定的な誤算となって現れた。
第二次世界大戦
 ヒトラーはミュンヘン会談によって承認されたズデーテンを足場に、チェコスロヴァキアを解体し、東方へのドイツ人の生存圏の拡張という目標を具体化させていった。1939年、ヒトラーがポーランドに対してダンツィヒの併合を要求するにおよんで、チェンバレン首相はポーランドとイギリスは同盟関係にあったので、ついにドイツとの戦争を決意、9月、ポーランドに侵攻すると、イギリスはフランスとともにただちに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。たが、チェンバレン首相はポーランド救援に派兵することはせず、宣戦布告しても戦闘はしないという奇妙な戦争といわれる状態になった。東部戦線で勝利を占めたドイツは、1940年4月、その矛先を西に向け、デンマーク・ノルウェー侵攻した。特にノルウェーをドイツに占領されることは大きな危機であるので、イギリス海軍が派遣され、ドイツ軍のノルウェー北部への上陸作戦を妨害しようとしたが失敗した。チェンバレン内閣はこの海戦の敗北の責任をとる形で総辞職し、1940年5月に対独強攻策を主張していたチャーチルが首相に就任した

⚫チャーチル

イギリスの首相。第二次世界大戦を指導し、大戦後も首相を務める。

 ウィンストン=チャーチル、第一次世界大戦中から第二次世界大戦、戦後の冷戦時代にかけてのもっとも著名なイギリスの政治家の一人。先祖は名誉革命時代に活躍した貴族のマールバラ卿。彼自身もハロー校から陸軍士官学校のエリートコースを歩む。インドや南アフリカで軍人生活を送り、1899年には南アフリカ戦争に新聞記者として従軍している。1900年に保守党から立候補して下院議員となり、政治活動を開始した。次第に自由貿易主義をとるようになり自由党に転じる。






イギリスの首相2 - ミラーマンレオ

2018/01/10 (Wed) 19:59:27


⚫ウォルポール

18世紀前半のイギリスの責任内閣制最初の首相。ホイッグ党の指導者として1721年に第一大蔵卿となり実質的に内閣を主導。1742年、ホイッグが議会少数派となったため辞任し、責任内閣制を定着させた。

 ウォルポール Robert Walpole 1676-1745 は18世紀前半のイギリス、ハノーヴァー朝ジョージ1世の時の政治家。ケンブリッジ大学を卒業後、ホィッグ党に属する政治家として議会で活躍、1720年の「南海泡沫事件」の混乱を収拾して頭角を現し、1721年から第一大蔵卿を務め、内閣のメンバーとなった。国王ジョージ1世はあまり英語も話せず、国政をウォルポールに任せたので、彼は「閣僚の第一人者」という意味の、プライム・ミニスターと呼ばれるようになり、それが内閣総理大臣(首相)を意味するようになる(制度としては1907年から)。
 ウォルポールは対外戦争をできるだけ抑えて財政の安定を図り、重商主義政策(主として保護関税政策。原材料の輸入関税は低くし、茶などの奢侈品に対しては高く設定した。)をとってイギリス産業を保護し、大英帝国への発展を準備した。対外戦争では1740年のオーストリア継承戦争に際してオーストリアを支持(直接軍隊は送らなかった)、対スペインのジェンキンズの耳戦争と、対フランスのジョージ王戦争を戦った。
 1742年、議会(下院)内で反対派が多数を占めると、ウォルポールは王や上院の支持があったにもかかわらず潔く辞任した。これが、議会で多数を占める党派の党首が内閣を組織するという責任内閣制の先例が開かれることになった。こうして、内閣は国王に替わって国政の全般を掌握し、国民の代表である議会に対して責任を持つという責任内閣制が成立したとされる。 → イギリス議会制度
参考 この時代のイギリスの政治状況を風刺した文学作品として、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』がある。

南海泡沫事件

 1720年、イギリスで起こった株式暴落事件。1990年代に起こったバブル経済の原点ともいわれている。スペイン継承戦争が起こったとき、イギリス政府は戦費を得るために公債を発行しすぎたため、その利息の支払いに苦しんでいた。そこで「南海会社」という貿易会社を設立し、南米の東南海岸地帯との貿易特権を与え、その株式で公債を買い取ることを計画した。南海会社は人びとの投機心を刺激し、1720年1月の発足時の株価100ポンドが半年で1050ポンドまで値上がりした。それに刺激されて、民間にも次々と投機目的の会社が作られたが、それらは実体のない、泡沫(バブル)会社であった。6月をピークに株価は下がりはじめ、12月には125ポンドに暴落した。つまり、バブルがはじけてしまい、ピーク時に高値で買った一般の投資者は大損し、破産するものが続出した。この顛末を「南海泡沫事件」といい、日本の1986~91年の株価と地価の高騰をバブル経済と言っているのはこの泡沫、つまりバブルからきている。ウォルポールは南海会社設立には反対し、その破綻が明らかになってから再建を託され、奴隷貿易と捕鯨を専業とする会社に縮小して再建に成功した。翌年首相となった彼はその体験を生かし、国内産業と海運の保護にあたり、国民的重商主義政策をとってイギリス経済を建て直した。

⚫ウィルバーフォース
19世紀初頭、イギリスの奴隷貿易禁止、奴隷制度廃止の実現に活躍した政治家、宗教家。

 イギリスの貴族の出身で、キリスト教の福音主義運動(教会によらず、個人の宗教的改心を重視する新教徒)の影響を受け、人道的な立場から黒人奴隷貿易の禁止を主張するようになった。有力政治家のピットに働きかけ、1807年に奴隷貿易禁止法を、さらに1833年にはイギリス帝国全域の奴隷制度廃止の制定を実現させた。
奴隷貿易禁止の運動

⚫ピット
産業革命、フランス革命の時期のイギリスの首相。数回にわたり対仏大同盟を結成、ナポレオンとも戦った。トーリ党政治家として、アイルランドとの併合を実現、連合王国を成立させた。

 ピット William Pitt 1759-1806 はイギリス産業革命期とフランス革命・ナポレオン戦争の時期に、長期にわたって首相を務めたイギリスの政治家。同じトーリ党の父も首相を務めたので大ピットといい、こちらは小ピットという。在任は1783年~1801年と1804年~06年の二回。 → イギリス(6)  イギリス(7)
 父の大ピットは七年戦争の時の首相。小ピットは24歳の1783年、イギリスがパリ条約でアメリカ合衆国の独立を認めた後に、ジョージ3世によって首相に抜擢された。その長期にわたる在任中の主な事項は次の通り。
産業革命への対応
 彼はトーリ党であったが、産業革命の進行という時勢に合わせてアダム=スミスの学説を容れて関税を軽減し自由貿易を推進した。就任間もない1784年には「インド法」を制定して、重商主義的な特許会社であるイギリス東インド会社に対する本国政府の統制力を強めて、その特権の削減に努め、1786年にはフランスとの間で自由貿易主義にもとづく英仏通商条約(イーデン条約)を締結した。またウィルバーフォースらトーリ党の人道的奴隷制反対論者の意見を容れ、1807年には奴隷貿易禁止法が制定される。しかし、資本主義の矛盾が深まり、労働者が権利要求を強めてくると、ブルジョワジーの立場から改革派に対する弾圧を強め、1799年、1800年の二度、団結禁止法を制定して、労働組合の結成を非合法化した。また当時はまだ地主階級の力は強く、ピット死後の1815年には穀物法が制定されイギリスは保護主義にもどる。
フランス革命・ナポレオンとの対抗
 フランス革命が起こると当初は傍観したが、革命が立憲君主政の枠を超えて、国王処刑、社会改革にまで進行することを恐れた。革命軍がベルギーを占領してオランダ進出をねらうようになると、1793年の第1回対仏大同盟を呼びかけた。同年、ついにナポレオン戦争が始まると、ピットは西インドに派兵して、その地のフランス植民地を攻撃した。さらに1799年に第2回対仏大同盟を締結した。首相辞任後、1802年にアミアンの和約が成立したが、すぐに和約が崩れると1804年に首相に復帰し、翌1805年の第3回対仏大同盟をそれぞれ結成し、ナポレオンのヨーロッパ制圧を抑えようとした。1805年のトラファルガーの海戦ではイギリス海軍がフランス海軍を破り、ナポレオンのイギリス侵攻を食い止めたが、同年のアウステルリッツの戦いでのプロイセン・ロシア連合軍の敗北にショックを受けて病に伏し、翌1806年に没した。
アイルランドの併合
 アイルランドはイギリスの半植民地状態におかれ、カトリック信仰の自由が制限されていたが、フランス革命の影響を受けて反イギリスの気運が強まった。ピットはこの動きを警戒し、1800年にはアイルランド併合を実現させ、一つの国家に統合し翌1801年1月に「グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国」が生まれた。ピットはカトリック信仰も容認しようとしたが、ジョージ3世が拒否したため、1801年にピットは首相を辞任し、アイルランド問題はさらに継続されることとなる。
Episode 二世政治家、24歳で首相になる
 ピットの父(大ピット)も首相を務めたので、こちらは小ピットというが、この「二世政治家」(ちなみにイギリスでは親子二代で首相になったのはこの例しかいない)は、どこかの国の二代目とは違い名声と実力を併せ持ち、ナポレオン戦争というイギリスの難局に当たったすぐれた政治家だった。彼はわずか23歳で大蔵大臣に抜擢され、イギリスが1783年パリ条約でアメリカ合衆国の独立を認めた後に、国王ジョージ3世によって24歳で首相に任命された。父と同じくエピソードの少ないまじめな政治家であったが、大酒飲みで有名で、あるとき飲み友達と一緒に酔っぱらって議場に入り、友人に「議長が見えんな」というと、友人は「馬鹿いうな。あそこに二人いるじゃないか」と答えたという。この二人、宿に泊まって一晩でワインを7本飲んだという逸話もある。<小林章夫『イギリス名宰相物語』1999 講談社現代新書 p.67>
ピットの評価
 高校世界史の教科書ではピットは、対仏大同盟の立役者としてだけ登場し、イギリス首相としての業績については触れられないのが普通であるが、近代イギリス史では外すことのできない政治家の一人である。その評価については次の文が適切なようだ。
(引用)近代のイシュー(争点)に正面から取り組んだ最初の国民的リーダーは、ウィリアム・ピット。同年生まれのウィリアム・ウィルバーフォースとケインブリッジ大学で同窓、生涯の親友となった。ともに21歳で庶民院議員である。アメリカ独立を承認したパリ条約の直後に弱冠23歳で首班指名され、中断をはさんで計21年間も首相をつとめ、産業革命と対フランス戦争と「連合王国」の成立にかかわった。「小ピット」というが、同名の父「大ピット」の子だからそうよばれたので、長身の秀才、有能な仕事人、その演説は天下の逸品であった。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.203>
 小ピットは「近代トーリ党の祖」という評もあるが、誤解を招きやすい。彼は党派を超えた国家指導者(ステイツマン)であり、政敵ホイッグ党のフォックスにも一目置かせる「公共精神(パブリック・スピリット)」をにない、古来の国制とアダム=スミスを信じ、ホイッグの論客バークにも近かった。
 また、ピットは「対仏大同盟」をとなえ、フランスと戦ったので保守反動と思われがちだが、イギリスがフランスとの戦争に踏み切ったのは1789年ではなく、ルイ16世処刑後の93年であったのであり、ピットは自由主義者としてジャコバン主義国家とナポレオンのヨーロッパ帝国に対決したのだった。

⚫ウェリントン
イギリスの軍人、政治家。ワーテルローの戦いでナポレオン軍を破る。トーリ党政治家として、改革にも取り組んだ。

 ウェリントンはワーテルローの戦いでナポレオン軍を破った英雄としてよく知られているが、トーリ党の政治家で、しかも保守一辺倒ではなく、改革にも積極的であって、自由主義的改革にも取り組み、1828年の審査法の廃止、1829年のカトリック教徒解放法の制定の時の首相であった。また、選挙法改正にも抵抗しなかったことで知られる。

⚫保守党
近代から現代にかけてのイギリスの政党。トーリ党との後身として1830年代から保守党と称し、20世紀前半までは自由党と、後半は労働党とともにイギリスに大政党の一翼を担い、現在もたびたび政権を担当している。

 イギリス議会制度の中で形成されてきた政党政治は、19世紀のイギリスで典型的な展開を見ている。トーリ党は、ピール首相の時の1834年に保守党(Conservative Party)と称するようになった。一方のホィッグ党は自由党といわれ、ライバル関係は続いた。しかしピール内閣が進めた穀物法の廃止を巡って分裂し、ピールら自由貿易主義派が分離し、保護貿易主義派が保守党を継承した。19世紀後半のヴィクトリア朝時代にディズレーリの主導で帝国主義的な政策を強め、自由党との二大政党時代を築いた。
 19世紀末にアイルランド自治法案を巡り自由党から反対派が分裂し、自由統一党を結成した。チェンバレンら自由統一党は次第に保守党に同調し、1912年に正式に合同し、その時党名は「保守統一党」Conservative and Unionist Party となった。この党名は今も続いているが、後にアイルランドの分離独立が確定したので、現在ではあまり使われず、単に「保守党」というのが通称となっている。
 第一次世界大戦後には労働党が台頭して、自由党は力を次第に弱め、世界恐慌期には鼎立した三党が連立する状態が続いた。戦後は労働党と交互に政権を担当する状況が続き、保守党サッチャーの長期政権の次には労働党ブレア政権が続いた。しかし21世紀には労働党がイラク戦争での対応の誤りからが勢いを失い、第三の極として自由民主党が登場し、2010年には保守党と自由民主党の連立のキャメロン政権となった。2015年には保守党単独政権となったが、スコットランドの分離運動、EUからの分離という問題に直面している。
ピールの改革と分裂
 ピールはトーリ党の指導者として下院で活躍していたが、地主階級の出身ではなく、父はランカシャーの織物業経営者として成功した人物であり、産業資本家の立場に立っていた。産業革命が進行した19世紀初頭、産業資本家層の選挙権要求とともに、自由貿易主義が台頭してくると、ホイッグ党のグレイ内閣の時にまず1832年に第1回選挙法改正が実現したが、トーリ党のピールはそれには一貫して反対していた。1834年、ピール内閣が成立すると、ピールは自分の選挙区で「マニフェスト」を発表してトーリ党の従来の保護貿易主義を改め、自由貿易主義を掲げ、穀物法の廃止論に転換した。しかし、選挙で敗れたためピールはいったん野党に退き、1841年に再び内閣を組織して次々と自由主義的な経済政策を実行していった。1845年のアイルランドのジャガイモ飢饉に端を発する穀物価格の急上昇を受けて、翌1846年、穀物法廃止を提案した。保守党の中にも反対派が多かったのでピールはホイッグ党と提携して法案を成立させた。しかし、そのために保守党はピールらの自由貿易主義者は保守党から離れ、1859年にホイッグ党に合流し、自由党を成立させることになる。 → イギリス(7)
自由党との二大政党時代
 19世紀後半になると、農業的利益を優先する保守的な地主階層を代表する政党という性格が次第に薄れ、自由党と同じような商工業的利益に優先させる傾向が強まった。しかし、自由党が自由主義的な経済活動を重視し、国権による経済介入や海外進出には新潮であったのに対して、保守党は経済への積極的な介入、海外植民地の獲得といった帝国主義政策を主導するようになった。そのような19世紀の後半のヴィクトリア朝を指導したのがディズレーリであり、60~80年代にグラッドストンの指導する自由党との二大政党制の一翼を担うこととなった。 → イギリス(8)
帝国主義政策
 1886年、アイルランド問題でグラッドストン自由党内閣は暗礁に乗り上げた。アイルランド自治法案に反対したジョゼフ=チェンバレンらが自由党から離党し、自由統一党を結成、自由党は分裂し、同年の総選挙でも敗れたグラッドストン内閣は総辞職した。保守党でディズレーリの後継者となったソールズベリ第2次内閣を組閣、これ以降、保守党主導の帝国主義政策が展開される。
 1895年の総選挙で大勝した保守党は、自由統一党と合体して統一党を結成し、ソールズベリ第3次内閣を組織、チェンバレンが植民地相となって、ボーア戦争に踏み切った。
労働党との二大政党時代
 第一次世界大戦後、労働党が台頭し、自由党が没落するとその保守的な部分を吸収し、1912年に保守党に正式に統合した。それ以後は、労働党と二大政党政治を展開、ネヴィル=チェンバレンらが労働党のマクドナルドらと対抗した。
 第二次世界大戦中にはチャーチル(戦前には一時自由党に属す)が戦争指導に当たり、国民の強い支持を受けたが、大戦末期にドイツとの戦争での勝利が明らかになると、国民の期待は戦争よりも社会福祉に転換し、労働党のアトリー内閣が生まれた。それ以後は保守党と労働党の二大政党が政権を交互に担当するようになり、保守党にはイーデン、マクミランが続いた。
サッチャーの新自由主義
 1970年代、「イギリス病」と言われるイギリス経済の停滞が明らかになると、それまで保守党政権下でも守られていた社会保障優先の政策に対して、保守党党首サッチャーが大胆な削減を主張、公共事業の民営化と、ヴィクトリア時代の繁栄を取り戻すことを掲げて選挙で勝利し、80年代のサッチャー時代を現出した。サッチャーは、新自由主義の影響を受け、ケインズ的な財政出動による経済政策を「大きな政府」として否定し、社会保障の削減、規制緩和などを強行し、それに対する批判を1982年のフォークランド戦争で果敢に国益を守った「鉄の女」というイメージでかわし、国民的な人気を獲得した。
サッチャー後の保守党
 サッチャーの次はメイジャーが保守党内閣を組織したが、サッチャー主義の行き過ぎから経済格差の拡大が進んだことへの反発から労働党のブレアが政権を奪還した。ブレアはサッチャー主義にケインズ的な社会政策を加味した「第三の通」を採ることで支持を集めたが、外交政策ではアメリカ追随が色濃くなった。労働党政権はブラウンが継承したが、イラク戦争への参加や経済政策に対する批判が強まって国民的支持は低下し、2010年総選挙でキャメロン率いる保守党が第1党となった。しかし、単独では政権を作れず、急速に台頭して第三党となった自由民主党との連立を組むこととなった。2015年に単独政権となったキャメロン政権は、国内で高まったスコットランドの分離運動と、イギリス自身のEUからの分離運動に直面し、前者はスコットランドの住民投票で否決されたものの、後者は2016年6月の国民投票で可決され、残留を主導していたキャメロンは辞任することとなった

⚫自由党
イギリスの政党でホイッグ党の後身。19世紀後半から20世紀初頭に最も党勢が盛んで、改革を実現させたが、アイルランド自治法案を巡って分裂。第一次世界大戦前後には政権を握ったが、戦後は労働党におされ次第に後退した。

 それまでのホイッグ党が、1830年ごろに自由党(Liberal Party)と呼ばれるようになった。正式には、ホイッグ党に保守党から分裂したピールら自由貿易派が合流し、それに急進的な自由貿易派が加わった三党派が合流して、1859年6月に「自由党」Liberal Party を結成したことから始まる。
 ホイッグから自由党に進化する間、産業ブルジョワジーの利益を代表する政策を主に主張したが、その指導者グレー(第1回選挙法改正)、メルバーン、ラッセル、パーマーストンらはいずれも地主出身であったので、自由主義的な地主階級(ジェントリ)の政党という性格も強かった。
グラッドストンの時代
 1865年以降、グラッドストンが指導した時期はブルジョア的自由主義の政策をとって保守党との二大政党制を現出した。
 グラッドストンの自由党は、19世紀後半のヴィクトリア朝時代に、保守党のディズレーリの帝国主義政策を批判し、1880年の総選挙では保守党に大勝して第2次内閣を組織した。グラッドストン内閣は第3次選挙法改正(84年)を実現し、女性参政権を除いて普通選挙に近い選挙制度を実現するなどの改革を行った。
自由党の分裂
 グラッドストンは、アイルランド問題の解決に並々ならぬ熱意を持っていた。第1次内閣ではアイルランド土地法(小作人保護を目的とする第一次法、70年)を実現させたが、第2次内閣のアイルランド土地法(借地権の保護を定めた第2次法 81年)によってでも、自治要求闘争を抑えることはできなかった。第3次内閣を組織した、1886年、アイルランド自治法案を提出したが、同じ自由党内のジョセフ=チェンバレンらが自治付与に強く反対し、自由統一党を結成、自由党は分裂した。
 また、植民地におけるナショナリズムの高まりによってエジプトやスーダンで反英闘争が活発になると、グラッドストンはそれらに同情的な姿勢を見せ、ゴードン将軍がマフディ軍に殺害されるのを防げなかったことで、非難を浴びることになった。こうして、アイルランドを含む植民地問題への対応は、自由党を分裂させ、その党勢を一時的に失わせることとなった。 → イギリス帝国主義政策
 その後、ジョセフ=チェンバレンは保守党と合同して統一党をつくり、ソールズベリ内閣の植民地相として、南ア戦争などの帝国主義的膨張政策を積極的に進め、その間、自由党は野党の立場に立たざるを得なかった。しかしドイツとの帝国主義的対立が深刻になると、自由党自身も次第に自由主義を堅持しながら帝国主義政策を支持するように偏執していった。いわゆる「自由帝国主義」などとといわれる妥協的な姿勢を取るようになる。
自由党内閣による改革
 南アフリカ戦争は初期の想定を超えて長期化し、オレンジ自由国とトランスヴァール共和国の併合という植民地獲得という勝利となったが、多くの人的損害とともに軍事費は国債に依存したので、膨大な財政赤字を残した。そのような帝国主義の矛盾が表面化したことによって、保守党(統一党から戻る)政権は退陣し、1905年にキャメル=バナマン自由党内閣に交替した。自由党は1906年の総選挙で保守党に大勝し、アスキスが内閣を組織し、次々と改革法案を成立させた。まず1906年の労働争議法によるストライキ権の保護、労働者賠償法、学童給食法などを成立させた。1908年以降には養老年金法、住宅及び都市計画法、職業紹介所法などが続いた。最も重要なものが、1911年のアスキス内閣での国民保険法の制定である。
 ドイツのヴィルヘルム2世の帝国主義政策の脅威が強まり、建艦競争を展開するようになると、その財源確保のため、アスキス内閣の蔵相ロイド=ジョージは富裕層への課税で乗り切ろうとし、上院がそれに抵抗すると議会法を成立させて予算決定での下院の優先の原則をうちたてた。
 懸案のアイルランド問題も一定の前進を見せ、1914年にアイルランド自治法が議会を通過したが、第一次世界大戦の勃発によってその実施は延期され、かえってアイルランドの反発が強まった。
ロイド=ジョージ
 第一次世界大戦の勃発によって、戦時内閣による対応が迫られ、1915年5月、自由党のアスキスが首相を務め、保守党・労働党からも閣僚を出し初めてが「挙国一致内閣」が組織された。しかし、アスキスの戦争指導には同じ自由党のロイド=ジョージらが批判的であったため対立が生じ、16年12月に首相はロイド=ジョージに替わった。それ以後、ロイド=ジョージが第一次世界大戦期と戦後のヴェルサイユ体制の指導で活躍した。
大戦後の衰退
 1916年、自由党はロイド=ジョージの連立自由党と、アスキスらの独立自由党に再び分裂した。党勢は労働党に押され、第一次世界大戦後の1922年の総選挙では少数野党に転落、両党は1926年に再統一を果たしたが、その後も低迷が続いた。第二次世界大戦後も労働党と保守党の二大政党に挟まれて、弱小政党にとどまっていたが、労働党から1981年に分裂した社会民主党と、1983年に選挙連合を組み、さらに1988年に合同して社会自由民主党となった。翌1989年に党名を自由民主党に変更、保守党と労働党の二大政党を脅かす存在となっている。


⚫パーマーストン
19世紀中ごろ、イギリスの自由貿易主義の理念に立った外交を推進。

 パーマーストンは1831年~65年の間、約10年を除き、外相あるいは首相として、イギリスの外交を推進した政治家(はじめトーリ党、後にホイッグに移る)。この間のヴィクトリア朝前半のイギリス外交を「パーマーストン外交」という。その基本は、自由貿易主義の理論に立ち、イギリス資本主義の世界市場の拡張にあたり、ヨーロッパ列強とは勢力均衡を図りながら、東欧やアジアの専制国家に対しては開国と自由貿易を要求するものであった。この段階のイギリスは、自由市場の拡大が主要な目的であり、次の19世紀後半からのディズレーリ以降の帝国主義的外交と区別されるが、その手段はアヘン戦争やインド支配に見られるように抵抗があれば武力を行使する点で同じ性格のものであった。イギリス国内の選挙法改正や労働者保護法の制定など、自由主義社会の枠組みが形成られる一方で、武力に訴える植民地政策をとっていたことを忘れてはいけない。また日本の開国の時期がイギリスではパーマーストン外交の時期に当たっていることも注目する。
パーマーストン外交
 パーマーストン外交と言われた、19世紀中葉のイギリス外交の主要な事項には次のようなものがある。
・ベルギーの独立に対する支援 1831年  さらに1839年のベルギー中立化の実現
・東方問題への介入 1831年~ エジプト=トルコ戦争で両勢力を調停  1840年 ロンドン会議
・トルコ=イギリス通商条約 1838年 アジア諸国への不平等条約押しつけの最初
・中国侵出 1840~42年 アヘン戦争 → 南京条約、  1856~60年 アロー戦争 → 北京条約
・白人植民地の自治付与 1840年 カナダを最初の自治植民地とする
・クリミア戦争 1853~57年 ロシアの南下政策に対し、フランスなどと協力してオスマン帝国を支援
・インド支配 1857~59年 インド大反乱を鎮圧、 1858年 東インド会社解散
・イタリア統一戦争 1859年~ ガリバルディらのイタリアの統一を支援

⚫グラッドストン

19世紀後半のイギリスの自由党の政治家。自由貿易政策を伸張させる。第3次選挙法改正を実現させ、アイルランド自治法の成立をめざしたが保守派の抵抗で失敗。帝国主義競争の激化にたいしてはつねに批判的であった。

グラッドストン William Ewart Gladstone 1809-98 19世紀後半のイギリスの、ヴィクトリア朝は典型的な二大政党時代であったが、その一方の自由党を代表する政治家であった。好敵手であった保守党のディズレーリが帝国主義政策を推進したのに対して、19世紀的なブルジョア自由主義の代表的政治家といえる。はじめ保守主義の政治家として出発したが、穀物法廃止に賛成して次第に自由主義貿易を主張するようになる。1860年にはパーマーストン内閣の蔵相として英仏通商条約の締結にあたるなど実績を上げ、1868年(明治元年に当たる)から1894年(明治27年、日清戦争の年)までの間に4次にわたって自由党内閣を組織した。

グラッドストン内閣の仕事

 以下、4次にわたるグラッドストン内閣の業績と問題点を整理すると次のようになる。第1次グラッドストン内閣(1868~74年):アイルランド国教会制廃止法(69年)、アイルランド土地法(小作人保護を目的とする第一次法、70年)、教育法(70年)、労働組合法(71年)、秘密投票法(無記名投票法、72年)など一連の改革を矢継ぎ早に実現させた。しかし、1874年総選挙で敗れ、ディズレーリ保守党内閣に交替。ディズレーリ内閣のもと、スエズ運河買収、インド帝国成立などのイギリス帝国主義政策が推進される。グラッドストン自由党はそれを批判して1880年総選挙で勝利した。第2次グラッドストン内閣(1880~1885年):ディズレーリの強硬外交を批判し平和主義、自由主義を掲げる。第3次選挙法改正(84年)を実現し農村労働者にも選挙権を拡大し、有権者を倍増させた。その他、選挙の不正防止や人口比例の小選挙区制を導入し、女性参政権を除き議会制民主主義の基盤を作った。
しかし、植民地で盛りあがった反英闘争の対処には苦しんだ。まずアイルランドでは農村不況から土地要求が強まり、第2次アイルランド土地法(81年)で借地権の保護を定めたが、自治要求闘争はさらに激化した。エジプトでは英仏の財政官吏に反発したアラービーの反乱が起こった。グラッドストンはエジプトからの撤退を考えたが閣内の強硬派の反対に押し切られイギリス単独で軍事占領した。スーダンでも反英闘争マフディーの反乱が起き、グラッドストンが派遣したゴードン将軍がマフディー軍に殺害され、グラッドストンの援軍派遣が遅れたことが非難された。結局、帝国主義的アフリカ分割に加わることとなり、1884~5年、ベルリン会議にも参加した。第3次グラッドストン内閣(1886年):アイルランド問題解決は一貫して彼の課題だった。アイルランドの自治権拡大を主張するアイルランド国民党が第3次選挙法改正によって議席を増大したのを受けて、アイルランドに議会開設を認めるなどの第1次アイルランド自治法案を提出した。しかし、自由党内のジョゼフ=チェンバレンらがアイルランドの自治に反対して脱党し、自由統一党を結成、自由党は分裂した。保守党も自治に反対したため法案は議会でも否決された。86年7月の総選挙でもグラッドストン自由党は敗北し、第2次ソールズベリ保守党内閣に交替した。自由党は単独では過半数が撮れず、アイルランド国民党と連立する道を選択する。第4次グラッドストン内閣(1892~94年):1892年8月の総選挙で自由党が僅差で第1党となり、グラッドストンは82歳となっていたが首相となった。4度めの組閣、82歳の年齢のいずれもイギリス史上初のことで「老大人 Grand Old Man」と言われた。翌年9月、グラッドストンは新たなアイルランド自治法案を議会に提出、下院では可決されたが、上院で保守党・自由統一党の反対で、大差で否決されてしまった。グラッドストンは上院改革を断行してでも法案を通すつもりであったが、高齢のため指導力が低下し、94年3月、84歳で辞任した。

アイルランド問題

 彼が追求したアイルランドの解放というアイルランド問題の解決は、保守勢力の抵抗でついに生前には実現できなかった。しかし、国民的な課題に対して貴族の既得権に固執する上院に対する批判が強まり、20世紀に入ってから、1911年の議会法制定で上院の権限は大幅に制限され、1914年にはようやくアイルランド自治法が成立することとなる。しかし、第一次世界大戦の勃発によって実施は延期され、さらにアイルランド側の完全独立を求める運動も激化し、その解決は遠のくこととなった。

参考 若き日のグラッドストン

 グラッドストンはリヴァプールの富裕な貿易商人でトーリ党議員の子で、イートン校からオックスフォード大学に入り、古典学と数学首席、学生自治会の議長をつとめた。兄と一緒にヨーロッパ旅行(グランドツァー)を経験したあと、22歳でトーリ党ピール派の議員となった。
アヘン戦争に反対 30歳の1840年4月8日、野党のヒラ議員として、ホィッグ党政権のパーマーストン外相の対中国外交を批判する演説を行った。それはアヘン戦争の開戦の是非を採決する前に行われた。

(引用)たしかに中国人には愚かな大言壮語と高慢の癖があり、しかも、それは度を超しています。しかし、正義は中国人側にあるのです。異教徒で半文明的な野蛮人たる中国人側に正義があり、他方のわが啓蒙され文明的なクリスチャン側は、正義にも信仰にももとる目的を遂行しようとしているのであります。・・・<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.211>

 このように若きグラッドストンはパーマーストンが進めようとしている戦争は「不義にして非道の戦争」であると鋭く非難している。しかし、採決の結果は、開戦賛成(政府支持)は271票、反対は262票、ただの9票差でイギリスはアヘン戦争に突入することとなった。

参考 晩年のグラッドストン

(引用)グラッドストンは1894年(84歳!)まで首相として精勤し、防衛費の増大を阻止し、自由貿易と平和、小さな政府、アイルランド自治のために尽力していた。選挙権が労働者にまで拡大した大衆社会に対応し、鉄道網を利用して全国を演説行脚し、世論を糾合した。オクスフォード大学であれ、マンチェスタ市であれ、ミドロージアン(エディンバラ)であれ、重要な選挙区を選んでみずから立候補し勝利した。政敵にはやっかいな、偉大な老ステイツマン(GOM)であった。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.244>

 自由党はチェンバレン(ジョゼフ)の分裂以来、単独では過半数をとれずアイルランド国民党との連立で政権を維持していた。しかし、国民党のエリート指導者パーネルがスキャンダルで1890年に失脚すると、グラッドストン=パーネル型の政治路線は新しい動きに対応しきれなくなった。新しい動きは、アイルランドではケルト文化復興に見られるナショナリズムの高揚であり、もはや大英帝国のもとでの「自治」の枠を越える動きとなっていた。グラッドストンの死(1898年)とともに、19世紀型の文明と信仰、自由貿易といった貴族的義務感(きれい事、ノブレス=オブリージュ)による問題解決は困難となり、イギリスはアイルランド問題、貧困問題、植民地問題、国際収支、国防、労働問題、社会主義、ジェンダー(女性解放)といった20世紀の問題に直面していくこととなる。<近藤和彦『同上書』p.246 を要約>
⚫ディズレーリ

19世紀後半のイギリスの保守党の政治家。スエズ運河買収、インド帝国成立など、帝国主義政策に転換させた。

政治家であると同時に小説家でもあった。19世紀後半、ヴィクトリア朝の保守党の代表的な政治家であるが、保守党を単なる地主階級の政党ではなく、議会制度に適応した民主主義的な国民政党に脱皮させることを目指した。当時の保守党党首のピールは産業資本家の立場での保守主義であったが、ディズレーリは地主の立場での保護貿易主義をとり、穀物法廃止にも反対した。ダービー内閣では蔵相として入閣し、政治的経験を積み上げ、には保守党の立場にありながら、自由党の主張する選挙権の拡大は時代の趨勢であると判断し、1867年に第二回選挙法改正を提案して実現させた。同時期の自由党のグラッドストンは好敵手であり、交互に政権を担当して二大政党制を展開したが、それは新たな選挙法で選挙権を獲得した都市労働者の大票田をどちらが獲得するか、という競争とあった。
 1868年、第1次ディズレーリ内閣を組閣したが、それはアイルランド問題で暗礁に乗り上げ、すぐに辞任して短命に終わった。その後、第1次グラッドストン自由党内閣が様々な改革を行ったが、1874年の選挙は変化を望んだ選挙民に指示され、第2次内閣を組織することとなった。
第2次ディスレーリ内閣(1874~80年):労働者の支持を得るためもあって、公衆衛生法や労働組合法など社会政策に力を入れ、この保守党の労働者よりの政策は「トーリ=デモクラシー」といわれた。しかし、ディズレーリ内閣の特質はその外交政策に現れ、1875年のスエズ運河の買収はロスチャイルド家の資本によってスエズ運河会社の株を買い占め、その営業権を得るという帝国主義政策の始まりを示すものであった。さらに1877年には、ヴィクトリア女王をインド皇帝とし、インド帝国を成立させ、第2次アフガン戦争を行ってアフガニスタンの保護国化を実行、さらに露土戦争後のベルリン会議に参加してロシアのバルカンへの南下政策を阻止し、キプロスを獲得するなど、19世紀末からの帝国主義政策につながる膨張策を推進した。
 しかし、その強硬な外交は膨張主義として自由党のグラッドストンらの批判を浴び、1880年の総選挙では敗北し、下野した。 

イギリスの宰相 - ミラーマンレオ

2018/01/10 (Wed) 19:49:35

イギリスの首相
⚫クロムウェル

ジェントリで熱心なピューリタンであり、独立派を率い、ピューリタン革命を指導、イギリスに共和制を出現させた。権力を握ってからは護国卿として独裁的な権力を行使したため、その死後は革命は後退し王政復古となった。

 オリヴァ=クロムウェル(1599~1658)。イギリスのピューリタン革命(1642~49年)の指導者。庶民院(下院)議員として議会派に加わり、指導者として頭角を現し、議会派の中の教会の独立と共和政を主張する独立派を率いて革命を達成、王政を廃止し、共和政を実現した後、護国卿となって最終的には独裁的な権力を握った。
 クロムウェルは自ら「私は生まれながらのジェントルマンである」といっているように、裕福なジェントリとして生まれ、熱心なピューリタンであった。1640年ケンブリッジ市から庶民院(下院)議員に選出され、1642年に内乱が勃発すると「鉄騎隊」を編成し議会派の軍事力の中心となり、1644年のマーストン=ムーアの戦いで勝利を収めた。そして1645年のネーズビーの戦いで決定的な勝利を勝ち取り、チャールズ1世は議会軍にひき渡された。1649年、クロムウェルは国王チャールズ1世を処刑、イギリスに最初で唯一の共和政(コモンウェルス)を実現させた。

クロムウェルの人物像

(引用)マーストン・ムア野戦の兵士中の逸物は、一人の新人であった。すなわちオリヴァー・クロムウェルである。彼はハンチントンの微々たるスクァイア(地主)であった。ハンプデンの従弟で、彼と同じく青年時代から清教徒であった。だが、クロムウェルの信仰がハンプデンのそれの如く厳粛なものだったとするも、後者ほどには明朗でなかった。憂鬱で、いつも悪夢にうなされていた彼は、生涯の一部を神秘な霊感の状態の中に過した。彼は普通のイギリス人にみられないくらいの感激家だった。そしてよく涙ぐむのであった。クロムウェルは、自己の信仰を守るためにはあくまで苛酷になれる人物であった。だが、一方、ひたすら清浄生活しか求めない貧しい基督教徒に対しては、無限の愛情を注いだ。大きな戦闘もしくは重大な決定の前夜には、みんなの処から逃れて、聖書と共に閉じこもり、長いこと祈りを捧げている彼の姿が幾回となく、見かけられた。聖書の言葉遣いが、彼の自然のスタイルとなっていた。・・・<アンドレ・モロワ/水島成夫・小林正訳『英国史』(下)

クロムウェルの政治

 権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、財産権と参政権の平等を要求する水平派や、土地均分を要求するディガーズの運動を弾圧するとともに、国内の王党派・カトリック勢力を厳しく取り締まった。また議会の穏健派である長老派を1648年には追放して、独立派のみで独占した(これ以後の長期議会を、ランプ議会という。ランプとは残部の意味)。また反革命運動を抑える口実で、アイルランド征服(1649年)とスコットランド征服(1650年)を実行した。
1651年には貿易商の要求を入れて航海法を制定、オランダとの対立を深め、翌年から英蘭戦争が始まった。1653年には長期議会を解散させ、護国卿に就任した。クロムウェルは、イギリス絶対王政のもとで獲得された海外領土に対しても共和政支持を拡げようとし、艦隊を送った。同時に「西方政策」と称して、西インド諸島や北米大陸のスペイン殖民地に対して攻勢をかけ、ジャマイカ島、トリニダート=トバゴなどを征服し、これによってイギリス領西インド諸島が形成された。

クロムウェルの独裁

 ピューリタン革命を勝利に導いたクロムウェルは1653年護国卿となってから、58年の死まで独裁者としてイギリスに君臨した。左には水平派の反体制運動、右には王党派の反革命陰謀、という左右両方からの攻撃に対し、クロムウェルは権力の維持のために軍事独裁体制を強化した。全国を10の軍区にわけ、各軍区に軍政長官を置き、軍事と行政の権限を与えた。この軍政長官には陸軍少将が当てられたので、この体制を「少将制」という。この軍政長官の下、ピューリタン道徳が国民に強要され、劇場や賭博、競馬などの娯楽は禁止された。
 議会(下院のみの一院であった)はクロムウェルに国王の称号を与えようとしたが、さすがにそれは拒否した。しかし、殿下と呼ばれ、後継者を指名することができ、第二院を設けてクロムウェルが議員を任命できるようにした。まさに実質的な国王となったといえるが、インフルエンザにかかり1658年9月3日に死んでしまう。その子リチャードが護国卿に就任したが議会も混乱し、リチャードは人望が無く調停に失敗しわずか8ヶ月で辞任してしまった。その後、議会は王政復古に動く。

クロムウェルの首

 クロムウェルの遺体はウェストミンスター寺院に鄭重に安置された。ところが王政復古となり、クロムウェルが国賊として非難されると、その棺はあばかれ、遺体はバラバラに切断され、首は鉄の棒の先に突き刺されて、その後24年間もロンドンでさらしものにされた。ところが1685年、大嵐がロンドンを襲い、クロムウェルの首は棒の先から落ちてしまった。守衛の一人がその首を自宅に持ち帰り、自宅の煙突のなかにかくし、娘にだけその秘密を明かして死んだ。どのような経緯か明らかではないが、1710年頃、この首が売りに出され、買い取ったものが見せ物にして金を稼いだという。その後も何人かの手を経て、1814年ウィルキンソンという人が買い取って、家宝として保存、1960年にウィルキンソン家の当主がクロムウェルの出身校であるシドニー・サセックス大学に贈ることとし、現在では同校構内に埋葬されているという。<この話は、ジョン・フォーマン『とびきり愉快なイギリス史』ちくま文庫 p.124 にも記載がある。>

⚫トーリ党
イギリス議会初期の政党で王政の存続を認める保守派。後に保守党につながる。

 17世紀のイギリス、ピューリタン革命後の王政復古期に、イギリス議会において、チャールズ2世の合法的な相続者としてカトリック教徒の王弟ジェームズの即位を認めた一派のこと。それに対してジェームズの即位を認めない議員グループをホィッグ党と言った。
トーリの意味
 1670年にホイッグ党が出した王位継承排斥法案を議会に提出したが、トーリはそれに反対し、議会で否決した。彼らはダンビーを首領とする旧貴族階級が多く、宮廷を基盤としていた。対立するホィッグ党からは「アイルランドの無法者」の意味のトーリ(Tory トーリーとも表記)と言われた。本来は蔑称であったが、次第に自らをトーリと称するようになった。アイルランドにはカトリック教徒が多かったので、カトリックのジェームズを支持したこの一派が多かった。
トーリの性格
 トーリ党の基本的な性格は王権との協調、国教会信仰、旧騎士階級などの保守派を代表する勢力であったが、ジェームズ2世のカトリック復帰策にはホイッグに協力し、名誉革命では国王の追放を実現、立憲君主政を担う政党になっていった。しかし、18世紀前半にはホイッグ党がハノーヴァー朝を支持し、ウォルポールが出て政権を独占、トーリはジェームズ2世の子孫を国王に復帰させようとするジャコバイトと見做され、勢力はふるわなかった。
小ピット
 18世紀末のフランス革命期にトーリ党から小ピットなどの人材が現れ、ホィッグの改革に対する保守勢力として政党化が進み、1830年代に保守党へと転身し、20世紀前半までは自由党との、20世紀後半から現在までは労働党との二大政党制の一方の政権担当政党として続いている。

⚫ホイッグ/ホイッグ党
イギリス議会初期の政党で、王権の制限、人権の保護を重視する革新派で、後の自由党の前身となった。

 イギリス議会において、カトリック教徒であるジェームズの王位継承を認めず、新教徒の庶子モンマス公を相続者とすることを主張し1670年に王位継承排斥法案(この法案は議会で否決された)に賛成した人びとで、シャフツベリーを首領として地方のジェントリを中心とし王権よりも民権を重視する傾向があった。敵対するトーリから、「スコットランドの謀反人」という意味のホィッグと言われた。スコットランドは反イングランド感情が強く、王室にも反抗的であったので、反王権の一派に対する蔑称として使われたが、やがて彼ら自らもホイッグと称するようになった。
 トーリとホイッグは王政復古期のチャールズ2世の時期に生まれたが、次のジェームズ2世がカトリック復帰を明確にすると一致して反国王にまわり、名誉革命を実現させたが、ウィリアム3世から次のアン女王の時代を経て、再び王位継承問題が起こると、ホイッグはハノーヴァー朝のジョージの招聘を認めたのに対し、トーリの多くは大陸に追われたステュアート家のジェームズ=エドワード(ジェームズ2世の息子)をフランスから呼び戻すことを主張した。彼らはジャコバイト(ジェームズのラテン名に由来する)と称され、ジョージ1世が即位すると、1715年に反乱を超した。このジャコバイトの反乱は鎮圧され、ハノーヴァー朝のもとではトーリは危険な反王権勢力として警戒され、議会でも少数派にとどまった。議会で多数を占めたホイッグはウォルポールが、実質的な初代の内閣を構成することとなった。
 ホイッグは次第に非国教徒と都市の商工業者の利害を代表するようになり、産業革命後は、選挙法改正などで自由主義の立場をとり、1820年~30年代の一連の自由主義的改革を推進し、1832年にはホイッグ党のグレイ内閣で第1回選挙法改正を実現した。
 1830年ごろから自由党を称するようになり、ブルジョワ自由主義政党として、20世紀前半までは保守党と二大政党時代を形成する。

歴史 - ミラーマンレオ

2018/01/10 (Wed) 19:40:46

歴史の勉強用です


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